エルサレム賞授賞式の春樹についてもう1件


注:日記ログ移行中につき、リンクはのちに追加します

まずは、件のスピーチ全文へのリンク。
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日本の新聞社系のニュースサイトとかで全文掲載してるところ、なくないですかー?
ゆゆしきことだと思うんですが。
普段、天皇陛下の会見とか、小室てつやさんの裁判とかの記録も全掲載してるくせに!
私のサーフィンが下手なだけ?


全文を読むと、改めて巧みさに唸らされるし、
春樹の文体に馴染んだ者としては、大舞台にあっても親しみを感じるし、
同時に、「ほんっと、かなり突っ込んで喋ったな!」という思いも強くなります。

これだけの英語原稿を自分で書いて自分で喋るって、
さすが春樹だなーと思うけど、まあ、もともと、そういう人ですからね。
政治家さんなどと違ってこの人には当然スピーチライターなんていないし。
米文学への深い造詣あっての、この人だし。
英文であってもまったく春樹らしさが損なわれないというか、むしろだからこそ世界中の言語圏に読者がいるわけで。

遠い将来、春樹の全集みたいなのが発行されたりしたら、このスピーチもきっと収録されるんでしょうね。
これも立派な彼の「著作」だな。

衆目にさらされることを嫌うことで有名な彼が、
その著作の中にさえもなかなか見つけることの出来ない、
個人的・政治的(ともとれる)スタンスについて、このように世界中に注目される舞台で
自らかなり明確に「喋って」るんだから、私ら読者にとっては不思議なもんです。


で、また「はてな」を始めとする熱いネット論壇も徘徊。

授賞式当日、速報(スピーチの抄訳)に接した際の感想は前のエントリの通りなんだけど、いろんな人の意見を読むと、なるほど、と思うこともいろいろあったな。
みなさん、思考やロジック、文章がアカデミックというか、私には難しくて一読では呑みこめないよー!てのもあったけど。


一般的に(とか書くけど、『一般的』の定義とかは詳細に吟味してませんよ、すみません)あの講演は、おおむね好評を博したようです。
中川大臣の例の会見も同日に報じられたせいか、両者の印象を比較して、
「春樹さんは立派! よくぞ堂々と述べた! 日本人の誇り!」
というような意見も、多々見られました。
うん、無理もない。率直な感想だよね。同感です。


ただ、やっぱり読み過ごせないのは、
(以下、引用ともいえないほどに、どの意見もものすごく自己編集してます)

「あのスピーチが全世界に配信されたからといって、世界は何も変わらない」

というような意見だったりします。

そりゃまぁ当然そうだろ、あのスピーチで突然に世界平和が訪れたりしたら、それこそ春樹は教祖様ってことになるでしょうが。
と、乱暴に考えれば考えられるところですが、そのように論じる理由として、

「あのスピーチがエルサレムのその場において聴衆に拍手された時点で、イスラエルの『寛容さ』が際立つという予定調和に終わっている」

と挙げられたら、考えさせられざるを得ません。
つまり、イスラエル側は、こういった、自国を弾劾されるスピーチをも想定して、受賞者を選んだ、と。
それをも受け容れる「言論の自由」をもってるんですよ我々は、と。
そういう文明国なんですよ、と。
あの国があれだけおおぜいを虐殺をしておきながら、そう主張する手だてのひとつが、この賞なのだ。
確かにそういわれると、深い無力感に打ちひしがれます。
エルサレム賞の審査員(?)がどこまで政治と関わっているかは不勉強にして知らないけど、授賞式にイスラエルの大統領やエルサレム市長が出席し、賞状(?)を手渡してたのは事実。)

しかし、「賞を授けますよ」と公的に表明された立場である春樹さんとしては、

  • 受賞拒否して、沈黙する
  • 受賞拒否して、イスラエル弾劾(とも解釈できる)意見を表明する
  • 受賞して、何も言わない
  • 受賞して、受賞式の場でイスラエル弾劾(とも解釈できる)スピーチをする

大まかに言うとこれくらいの選択肢しかないわけで、その中で最後者を選んだ春樹には当然、思うところがあったのだろう。
まあ、それがノーベル賞に対する布石とか、もっというと野心とか、穿った見方はいくらでもできるとしても、そういうのをひっくるめても、彼の「信念」が表出したのが、今回だと思う。

スピーチでも、「多くの人に反対されながら、なぜ私がここに来たか。」
ってことについて、言を割いてましたよね。


私たちは、彼の、誰かの、思うところを想像したり、
彼の言動に対して自由な感想を述べたりすることができる。
だけどもちろん、本件に興味すらない人だってたくさんいるし、
(それどころじゃない、っていうガザ地区で命の危険に晒されてる人たちも含めて)
春樹の本を読んだことないけどニュースで見ただけ人たち、
あるいは春樹を好きすぎる(?)人たちもいる。
その中には、「春樹すげーよ! おめでとう! かっこいー!」
で終わる人たちだってたくさんいる。
そういうのに対する、ネット上の意見(例によって自己編集済みですよ)。

「このスピーチにカタルシスを感じ、春樹を素晴らしいと評じ、しかしそこで思考停止して、3日も経てば忘れてしまう。それが一番、警戒すべきことだ。あのスピーチから、すべての人が自分の『実践』を始めるべきなのだ。」

うん。そう。そうだよね。ほんとにそうだ。
これ聞いて、感動して、ハイおしまい、じゃいけないんだ、って思う。
ただし、ネット論壇でも当然、指摘されているように、

「じゃあ実践って何? イスラエルを糾弾したって、マイクロソフトとかインテルとか入ってるパソコンでブログ書いたりすること自体(わたし註:いわゆる『ユダヤ・ロビー』とかの話ですよね?)イスラエルに加担してるといえなくもないんだよ?」

とかって問題提起されると、もう、がんじがらめになって動けませんけど・・・


“壊れやすい卵”という我々ひとりひとり、イコール個人に対するものとして、
“高くて堅すぎる壁”イコール体制あるいはシステムというものを挙げ、
いつだって卵の側につくと言い切った春樹すら、
結局は、“壁”の中で、彼自身が“卵”として脆弱な発言をしたにすぎないのかもしれない。
この世にある限り、壁つまりシステム、制度から逃れること、
その一切とかかわりのないところで生きてくことはできないんだろう。
だけど“壁”を壊すのは生半可なことじゃないんだもんね。
壁の中で声を上げる、ていうのが、卵にできる最大のことかもしれない。
でも、それがなければ始まらない。


30年も前は、春樹も星の数ほどいる新人作家のひとりで、そのころには、30年経ってこんなに大きな意味を求められる立場になるとは思いもよらなかっただろう。
彼の小説家人生は、その著作のセールスや影響力とは裏腹に、地道で実直で、マスコミとは無縁の世界をできるだけ選んできたものだと思う。
それが、いつのまにかこんなところまで来て、今、あの場でああいったスピーチを行った。

彼を真摯な人間だと思うし、今回のことは、ほかのいろんな人の意見を読むこととともに、私にとっては、ある意味、人生観を揺るがすような大きな出来事だった。
読む人にとっては、なんの論理性も感じられない、あるいはつぎはぎの記事かもしれないけど、自分のその記憶のために、これからのために、ここにも記しておきたいと思います。


参考エントリ

下記以外にも、これらのトラックバック等を辿っていろいろ読みました。
例によって、直接のコメント欄やブックマークコメントにも注目。

村上春樹とエルサレム賞(あるいは人間の三つのタイプについて) - 玄倉川の岸辺
2009-02-17 - モジモジ君のブログ。みたいな。

  • 関内関外日記

よくやったじゃねえか、村上春樹、よくやったぜお前! そして打順は巡ってくるんだぜ、俺、世界! - 関内関外日記
2009-02-17 - 関内関外日記

  • planet カラダン

2009-02-16 - planet カラダン

2009-02-16 - planet カラダン

  • 過ぎ去ろうとしない過去

「永遠の嘘」を構成する者 - 過ぎ去ろうとしない過去


追記
春樹さんも今や、60歳か。映像を見ると、大ファンとかではない私ですら、さすがに年を経られた様子に感慨を覚える。
でも、きゅんとくる。お元気そうでとても嬉しい。
海辺のカフカねじまき鳥クロニクルアンダーグラウンドも読んでないしこれからも読まないかもしれないけど、やっぱり、なんだかんだで春樹さん好きだー、って立脚点で、書いてることは間違いないっす。