『ヤノマミ』 國分拓

すんごい本。

ヤノマミ (新潮文庫)

ヤノマミ (新潮文庫)

 

 アマゾンの奥地で今なお原初の暮らしを営むヤノマミ族と、4期、計150日にわたって同居した筆者。ルポタージュとかドキュメンタリー(この取材は、2009年、NHKスペシャルでも放送されている)とかを超えた渾身の作品のように思われる。

ヤノマミには200以上の集落があり居住(完全な定住とはちょっと違うのだが)範囲も広く、集落によって「文明」度にはかなり差異がある。筆者が同居したワトリキに住むヤノマミは167人で、ナイフや鍋などが入ってきたのは10年ほど前(筆者の同居の10年ほど前=1990年代後半)。

彼らは「シャボノ」という直径60mの巨大な円形の家で、家族ごとの囲炉裏で暮らしている。囲炉裏のそばにある柱にハンモックを吊って眠る。壁はないので、食べる時も寝る時も、性行為さえ他人から丸見えである(ただしもちろん電気などないので夜は真っ暗)。

食料は、女たちが焼畑をしてバナナやタロ芋を作るが、動物性たんぱく質はもっぱら狩りによっていて、狩りはヤノマミの男のもっとも重要な仕事である。祭りの前には集団で森の奥深くへ分け入り何日も野営して、大掛かりな狩りをすることもある。そういう場合、狩った獲物は集落の全員で平等に分ける(シャボノ=住居で留守番をする治安人員もいる)。魚や肉は燻製にするぐらいで、長い保存はできないから、基本的に私有や貯蓄の概念は乏しい。運よくたくさん狩れれば、何日でもごろごろ休んでいる。「食べるものがあるのにどうして働かなければならないんだ?」

私たちからすれば人間を超えた身体能力で獣に近い暮らしをしているように見えても、彼らには彼らの倫理のようなものがある。まず彼らは言葉を持っているし、集団で食べ、集団で育てている。

京都大の総長でゴリラ研究の大家、山極壽一が、

「太古の昔から、人類と動物との決定的な違いは、火の使用より二足歩行より言語より、『共食』 と 『共同保育』である」

とEテレ「スイッチインタビュー」で言ってた。彼らはまぎれもなく人間。

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集落の一人一人にスポットをあててみると、やはり個性がある。若頭的に慕われる男もいれば、「家族なんていないほうがいい」と独身を選ぶ男もいる。派手に夫婦げんかして別居したり、熟年離婚したり、よりを戻したり。活発な娘もいればはにかみ屋もいる。夫がちっとも畑を手伝ってくれないとイライラしたり、夫が狩りから帰らなければ淋しくて不安だったり、心の動きもごく自然に理解できるものである。

それでも彼らにはやはり目を瞠る。ヤノマミでは、狩りがうまい男、たくさん食べられて体が強く、子どもたちを餓えさせない男がいい男とされる。何十キロも歩き、木の上に上り、動物の声音を真似ておびき寄せ、何時間でも駆引きする。もちろん野生動物は簡単には狩られないし、深い森の中には猛獣やヘビなど毒を持つ動物もいる。鳥や、豚や、猿、リス、バク、ワニ。ピラニアやピラルク。彼らは様々なものを狩り、釣り、解体して食べる。しかし手負いの獣には目もくれない。胎児も決して食べない。子どもは森に返して、「大きくなってから食う」という。

集落には「シャボリ」と言われるシャーマンがいて、動物や植物や風や石、万物の精霊と交信して祈祷する。「ホトカラ」という言葉がある。とても高いところにあって、何層にも重なり、どこまでも続く精霊の家。万物の精霊が住み、死んだ家族も、昔のヤノマミもそこにいる。自分たちも死んだらそこに行く。死者や精霊たちは天が落ちないようにホトカラで支えている。しかし精霊にも寿命があるという。男は最後は蟻や蝿になって地上に戻り、女は最後にノミやダニになり地上に戻る。地上で生き、ホトカラ<天>で精霊として生き、最後に虫になって消える、というのが彼らの宇宙観である。

森の中で巨大な獣や魚を狩ることもできる強い彼らが、やがて虫になって消えるとはなんという深遠。けれど納得できる気もする。彼らは常に命と対峙し、命を捕えて食らう。そこに優劣や上下はないのかもしれない。彼らの「死者の祭り」では、囲炉裏の下に埋めた死者の骨を食らうこともする。どんな生もどんな死も、上下も優劣もなく渾然一体となっているのがアマゾンの森の暮らしかもしれない。

生と死を考えさせるのは続く「女たちは森に消える」の章で、ここでは妊娠や出産が綴られる。女たちは森で出産し、産んだ後に、「人間か精霊か」を一人で決める。人間だと決めれば連れて帰り、育てる。でなければ、精霊として森に返す。その判断の理由を筆者は尋ねるが、どの女も語らない。とれる食糧には限度があるし、森の暮らしは厳しいから、養える数、強い体を持った子だけを育てるといえば、説明らしい説明にはなる。けれど、出産を終えたばかりの母親みずからが嬰児の命を奪う現場を見て筆者は思わず目を背け、目を背けた己を激しく嫌悪する。文明側の感覚でその場にリアクションしてしまったことを。

人間とするか精霊とするか、どちらにしても、女たちにはその後も儀式がある。女たちは子どもの頃からそれを見て育つ。男はいっさい立ち寄らない。判断について口も差し挟まない。彼らはそのようにして生きている。戦慄の章である。このあたりがNスペでどのように映像化されたのか、気になるところ・・・。

強靭な生命力と、猥雑な性の営みと、厳粛な命の選別。壮大な死生観。どんな命も大事とか多様性の尊重とか、そういう、正しいけれど口当たりのよい言い回しなんて吹き飛ぶような思いがする。彼らの生き方を、生きている地域を、いったい誰が侵すことができるだろう? そんな権利が誰にあるのだろう?

そんな衝撃を与えておいて、ここから、「変わりつつあるヤノマミ」を語っていく構成がすごい。

ヤノマミ族の居住区はブラジル政府などが保護区域として囲い、各地に駐在所をおいている。それは、森の自然や、絶滅に瀕する先住民の保護のためではあるけれど、そうした文明との接触は最低限に抑えてもなお、彼らに多大な影響を与える。先住民と文明側との意思疎通や交渉ごと対策のため、ポルトガル語を学びサンパウロに留学する若者もいる。彼は留学を終えると、サッカーボールや、DVDプレイヤーを持ち帰り、ブラジャーをつけ化粧をする妻を連れて帰り、鍵のかかる小屋を建てて住むようになった。若者たちは、それらの文物に夢中になり、狩りなど彼ら本来の生活をおろそかにする。病気の子どもを持つ親は、駐在員がくれるほんの気休めのような薬のために働き、子宮筋腫(?)に苦しむ女性がヘリで運ばれ西洋医術の手術を受けて回復したのを見て、人々は目を瞠った。この集落をつくり、偉大なシャーマンでもある長老は高齢になり、病に伏している。

殺戮や、病の流行などがなくても、文明と接した先住民たちは、その多くがこのようにして、瞬く間に滅び、あるいは暮らしぶりをがらりと変えていった。だからといって政府や民間団体がまったくの無接触を決め込んだほうがいいかというと、保護区に入る無法者(森林伐採や鉱山資源が目的)は必ず出て来るので、結局は同じ結果になるのだという。

彼らが滅びるのは自然の淘汰なのだろうか。絶滅危惧種の動物を人間の手で保護するのに疑問をもったことはなかった。彼らを絶滅に追い込むのはたいていの場合、人為的な環境の激変だろうから。文明に接さず暮らしている先住民の問題は同じように見えて、全く違うのだと感じる。彼らを「保護」しようだなんて傲慢なんじゃないかと。いや、動物の場合もそうなのか?

文明を手にしていない彼らが持っているものは何か。彼らが文明に保護され文明の論理に飲みこまれながら生き延びるのと、彼らの摂理を貫いて滅びるのと、どちらが彼らにとっての幸せだろう? ほかに道はない? 文明の利を享受する私たちが持ち得ないものは何か。人間らしさってなんだろう? 答えの出ない問いに打ちのめされるような、すごい本だった。


【追記】

この本を読んだのは8月にNHKスペシャルで「最後のイゾラド~隔絶された人々」を見たからだ(この本の著者やカメラマンが作った番組)。そのときも、イゾラド(=文明に触れたのことない先住民)を保護するため、接触を試み、話しかけ、バナナをあげて近づこうとする映像に強烈な違和感があった。彼らは動物ではない。彼らは全裸に近い恰好でいかにも未開人という感じだったけれど、私たちと同じ人間で、人間には尊厳があるはずだという直感みたいなものに貫かれた。

彼らは始めバナナを受け取り、単語レベルでの会話に応じ、彼らもまた文明側に興味を持っているように見えた。ここへ来るとバナナがもらえると知り、毎日のように催促に来るようになった。けれどある日突然、来なくなった。そしてやがて、バナナをくれていた集落を集団で襲撃した。集落の人々はみな、逃げた。イゾラドを追って森に入ると、ある場所にカエルの死骸がぶら下げてあった。先住民の合図で「この先は入るな」の意味だという。その展開に戦慄しつつ、彼らが彼らの流儀を貫いたようで何だかホッとした自分もいた・・・。もちろん、そういうふうに彼らの流儀がずっと守れるわけではない世界であることもよくわかるのだけど。

もし私がバナナをあげていた側の集落の人間だったら、言葉も、生活様式も、倫理も何もかも通じない(そして原始的なものとはいえ武器を持ち、火も扱える)イゾラドが近くに住んでいたらどんなに怖いか。でもそれは、彼らのほうも同じなんだよね。

 

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