『八重の桜』 第31話「離縁のわけ」

非常に締まった、まとまりのある回でした。コンパクトな中に核になるようなセリフがたくさん散りばめられていた。1か月ほど前でしょうか、「離縁のわけ」てサブタイを知ったときは「釣り乙」てな印象でしたが、こりゃ「離縁のわけ」以外の何ものでもなかろうと。当方、細かいネタバレは見ないようにしてるけど、まあ大河って大筋のネタバレ(史実)前提で進んでいる話だし、次週予告は見るし、特にネットやってると不意に目に入ることもあるので、今回はそれほどショッキングではなかったかなあ。

アバン前に尚之助からの離縁状が届いたのには、さすがにちょっとびっくりでしたが。早ぇーな! ま、本日の予定的に、いろいろ消化しなきゃいけない内容がありますからね…。内藤氏は「良い知らせじゃないかと」と張り切って持ってきてくれましたが、八重は既に半信半疑みたいな顔だったのが印象的。

明治4年。城で別れ、おから…否、大蔵が伝言してくれた以外、便りのやりとりはなかった様子。もともと、八重の方は夫婦としての情愛を育てきる前に戦禍に巻き込まれていき、今また3年以上も没交渉で暮らしていたことになります。離縁状を見た当初の、悲しみというより現実感のないショックで憤っているような反応は自然に感じられました。

いい人ができたんだろうとか(覚馬−うらの別れの前にちゃんとこういうセリフを入れてくるところが脚本の巧緻よのう)、夫婦なんだからつらいことがあれば言ってくれればいいのにとか、俯瞰している視聴者にしたら、てんで的外れだったり自分を棚に上げて〜ってなことを言い募るのも、ひとつには、八重の妻としての若さ・幼さでもあるけれど、電話もメールもなく、互いに相手が何をしているか、何を考えているかまったくわからない状態で3年以上も離れ離れになっていれば、ブラックボックスのように思えるのも道理だよなあ、と。城での一方的な別れがいまだ心のしこりになっているのもよく理解できます。

佐久さんの「わけがあるに違いない」が説得力。うらさんの「だんなさまに会いてぇなあ。会えばわかんべ」は、新幹線に乗って行けるわけでもあるまいし、三行半をつきつけられた今、会うこと自体が非常に困難であろうことを思えば、若干、的を外した慰めで、これまた「覚馬−うらの別れを念頭においたセリフ」感があったけど、確かに、夫が生きているかどうかさえ覚束ない(殆どあきらめの気持ちが大きかっただろう)人から見ると、生存が確認できているだけでも羨ましいよなあ。

で、もちろん、我らが尚さまは浮気なんぞをなさったわけではなく、米取引がきっかけで詐欺事件に巻き込まれ、拘留されていたのです。独りで泥をかぶろうとする表情は暗いのだけれど凛としていて、きっと城で八重を突き放して以来、もはや眉宇の涼しげな尚さまはいなくなったんだなあと。もともと会津人ではない尚之助だから、血のつながった家族や、故郷の大地を失ったわけではない。けれど言い換えれば、その分、彼にとって八重は唯一無二の価値の存在で、それを失うことはじゅうぶんに絶望に値することだった。同時に、斗南の惨状も身をもって知っている以上、事件になったとき、食わせるべき家族もいない自分が破滅することへのハードルが下がってしまったんだろうな、と。自分から言い出さなくても、斗南藩の台所事情では、山川に切り捨てられると見越している部分もあっただろう、尚之助なら。

・・・という、尚之助の心の動きはもちろん私(視聴者)の類推だし、八重との離婚を「詐欺事件がきっかけ」とするのは作り手の創作、想像ではあります。が、この詐欺事件、会津戦争後の尚之助の足取りは、「八重の桜」放送前年に発見されたいわば最新の史実で、このエピソードが大河ドラマで放送されることには、私は何か胸の熱くなるような思いがあります。

私自身、このエピソードを知ったのは大河放送開始後のことでした。ドラマの涼しげな尚之助(結婚前)を見ていると、ちょっと受け容れ難いくらい衝撃的で苛酷すぎる事件、寂しい後半生に思われました。でも、すぐに、その真実が明らかになったこと、自分がそれを知ることができたことを、良かったと思いました。

というか、この研究の成果あっての、「八重の桜」の尚之助なんですよね。従来、戦争が始まる前に既に離婚していたのではないかとか、あるいは、会津戦争中に城を見限って逃げた説まで流布していたのが、実は斗南藩士として足跡があり・・・というところから出発して、「じゃあ尚之助ってどんな人だった? 尚之助と八重との関係は?」とドラマ的に膨らませていってできた人物像であり、夫婦像なわけです。

まるで少女マンガの王子様のようなキャラクターは現実味が薄いというか、結婚や離婚のエピソードも含めてあまりに八重(というドラマの主人公)にとって都合のよい、乙女趣味の権化みたいなところがあるけれど、これはこれでありじゃないかなと私は思っています。歴史に埋もれていった中にも様々な人生があり苦闘があったのだと。そういうことに思いを寄せたり、尊厳を見出したりすることのできる、「歴史」と「物語」との邂逅のひとつが尚之助なんじゃないかなと思っています。うーん、なんかうまく書けない。

八重が漏らした「いつでも一人で決めてしまう」という不満は、きっと次の結婚生活に結びついていくんでしょうね。本当は、尚之助が一人で決めたのはたった2回だけ、「女だ、ここに女がいるぞ!」と(←このシーン、何度見ても長谷川博己の演技がすばらしい)、離縁だけなんだよね。あとは、尚之助は常に、八重のすべてを肯定し尊重してきた。逆に言うと、時代を考えれば破格なほどに妻を対等なパートナーとして尊重した尚之助をもってしても、非常時においては、妻を守るために独断専行せざるを得なかったほど、時代や場所という環境の制約は大きいわけです。このドラマの八重は、いずれ「離縁のわけ」を知り、今度は「一人で決めさせない」結婚生活のために苦闘するのでしょう。

で、ここでついに、出ましたね、大河名物の「鬼発言」。新選組副長土方歳三とか、「篤姫」における大久保利通とか、大河ドラマでは鬼になる人がいるものです。むしろ誰かが鬼になってくれなきゃ大河ドラマじゃありませんww や、ドラマ前半では、ケーキ公とか西郷さんとかが明らかに鬼だったわけですが、不言実行じゃ物足りないのwwww 言葉に出して言ってほしいの。できればもっと早い段階で、会津側の・・・最善は容保か頼母あたりが鬼と化して藩士たちを守ってほしかったのだが、歴史的に叶わないことですもんね。ついついここまでズルズルときて、そりゃ鬼がいなけりゃ戦争も勝てないってな話です(何の話だっけ?w)。

しかしここで、大事にとっておいた「鬼発言」を出すか、と。しかも、それで、切り捨てられるのが、よりによって何と主人公の夫ーーーー! ドS! ドSの名をほしいままにしています、脚本家! 

でも、ここのヒロシの演技良かったよ。あ、not ヒロシ(@あまちゃん)、but 浩ね。not おから but 大蔵 あらため〜の、浩。しつこいな、私も。おから事件が気になる人は検索してね。やっぱり、ここで鬼になるための玉鉄でもあったんだよね! てか、浩、ちょう美味しい役! 玉鉄ハマったな〜。

そうやって、尚之助が覚悟のうえで破滅の道を歩んだり、山川が断腸の思いで彼を切り捨てたりするのも斗南藩のためなのに、同時進行で廃藩置県を見せるっていうね。なんという虚しさ。ドS! ドSの名をほしいままにしています、脚本家! このあたり、いい加減、早く京都に行かなきゃいけないんで、どちらも超速足なんだけど、簡にして要を得ていてよかったんじゃないかなと思います。

  • 28→3万石への減封であった斗南藩だが、行ってみれば実際は7000石程度の収穫高しかなかったこと
  • 極寒、不毛の地。病死者、餓死者続出。米もない、豆もない、木の根まで食べる生活。
  • 日向ユキ「戦のあとにもっとつらいめにあうなんて」 高木家のおばあちゃん「みんな暮らしが厳しいから恨みをぶつけるしかない」
  • 豪雪の中を彷徨っていたわりにユキの顔がきれいなのは、オスカーが看板女優の汚しを嫌がったんじゃなく、NHKが昨年の“暗い汚い”クレームから学んだってことですよね
  • 幕府を倒すのに金を使いすぎた。新政府が金(藩がもっていた権力)を握るためには廃藩置県をするしかない。けれどそれは200万の武士(士族)を失業させることでもあり、悪くすればまた戦になりかねない
  • 西郷さん 「兵は自分が率いてもいいが、失敗したらここにいる全員、腹を切る覚悟を」

版籍奉還はすっ飛ばしましたが、それほどまでに重い仕儀である、と示したのだと思います(これで見てる人にはピンときてるのだろうか、ちょっと不安ですが) ここにいる全員・・・に大山巌まで入っているのは、この時期で既にそんなに偉いか?て思うんだけど、政府の官舎ではなく、岩倉邸での私的な会合、という設定にすることで、そこの無理を通したんでしょうね。

ちょっと許せなかったのは斗南藩松平容大の完全スルーですね。この時期、容保が側室に子を産ませた、ということをスルーしたいような、去年の清盛に(一時的な常盤以外の)側女や庶子がほとんどいなかったのと同様の、NHK的自主規制を感じてモヤッとしました。

さておき、離縁2カップル目(ひどい話だなほんと)平馬と二葉の梶原夫妻の離縁は、時間こそ短かったけれど、これも胸につまるものがありました。平馬のやつれっぷりがね、セリフでは「抜け殻」という一言ぐらいしかないんだけど、画面から超伝わってきて。だらしない着つけといい、髪や髭の無精っぷりといい、座り方といい…。それでも、あのときの京人形を手で弄んでいる。二葉や息子に対する愛情も垣間見えるし、それを手に入れたころ、まだしも平和だったころの過去に囚われているともとれる。

テンプレ的ではあるけれど、無念の死や、覚悟の破滅や、あるいは臥薪嘗胆を期す人々がいる一方で、いったん躓いて挫けてしまうと容易に再起できなかった人もいた、という象徴として描かれたのだろうと。会津戦争のころから、浅慮が前面に立つ描かれ方をしていたので、何となく納得の離縁でした。頼りなくなってしまった夫でも見限ることができず、「別れるのはいやだ」と言って泣く二葉が、手を伸ばしかけるもついに縋りつけないのが切ない…。

そして離縁3カップル目にして今回の真打ち、覚馬−うら夫妻の別れ…というよりうらの離脱は、これもまあ予想の範囲内ではあったけれど、ずしんと重かった。泣けた。別の女との間に子をもうけている覚馬に、妹は激怒するんだけど、母は「覚馬の子を追い出すのか」と言うんですよね。結婚当初から一貫して良き姑であった佐久だけど、やはり究極には我が子が何よりかわいい母の愛とエゴとがすごく出てた。同時に「これにはきっとわけがある」と尚之助からの離縁状が届いたときと同じセリフを言うのも良くて。うらの立場になれば、どんなわけがあろうと本質的な救いにはならないんだろうけど、戦争という個人の力ではどうしようもない出来事を経れば、誰もが、いかんともしがたい事情を抱えてしまうものでもあるのですよね。

年を取って生活に疲れた自分の顔を水鏡に映す演出、「赤い櫛が似合っていたころの私を覚えていてほしい」というセリフの心憎さよ! 現実には、覚馬が視力をなくしている以上、妻としては、若いうらしか記憶に残りようがないんですよね、たとえ京都に行ったとしても。時栄と出会ったころは既にかなり悪かったから、時栄の顔は覚束ないだろうし。

嫁いできた当初、陰気なほどに従順だったうらが、精いっぱい繕ったものではあるけど、いっそ快活なほどの笑顔で「私にも女の意地があります」と言う姿は忘れ難い印象を残します。近代的自我に目覚めた、というと大げさでも、9年もの間、戦争も経て、夫を待つ妻として、また娘を育てる母として精いっぱい生きてきた女が選ぶにふさわしい道というか・・・こうして、うらは歴史の波間に消えていくわけですが、若い女の前に敗れたのではなく、妾を囲った夫を憎んだのでもなく、誇り高い別れだったなと、ここでもこのドラマの「名もなき人々へのあたたかい眼差し」が見られたなと思います。

みねとの別れはもう、涙なしに見られましょうか。みねにとって お母さん>お父さん なのは当たり前の話で、かつて「お父さんが早く帰ってきますように」と祈るのも、「お母さんにイライラしてほしくないから」って理由・・・って場面もありました。覚馬からのただ一つの贈り物である櫛を、覚馬と別れようとしている今も「宝物だ」と言って渡して、娘も櫛も、結果的に何ひとつ残さず、夫とのつながりを手放してしまって、自分から背を向けて去る、うら。

みねが泣きじゃくり、お母さんと一緒に行きたいと言うのも当然ならば、八重が「武士の娘がいつまでも泣くんじゃない」と叱るのも良かった。一見、あまりに厳しいというか、みねの悲しみに寄り添わない叱咤なんだけれど、うらはこれまで、「夫に恥じぬよう、みねを武家の娘として立派に育てよう」とつとめてきたわけで、八重はうらの悲しみや痛みを重く重く受け止めているからこそ、「うらに代わってみねを育てていく」という覚悟で、あのセリフで叱ったんじゃないかと思うんです。

だからこそ、初対面の時栄を、八重は(まるで銃の照準を合わせるように)睨みつけるわけでね・・・。しかし時栄の着物のあつらえの良さ、お内儀さん然とした貫録と、粗末ななりの八重たちの対照といったらすごかったな。そして覚馬がさ〜〜〜! ここまで、完全にうらに感情移入してきて、出てくるや鴨川に投げ込んでやろうと意気込んでた視聴者の出鼻をくじく、覚馬の、人ったらしぶりがさ〜! 

本日それまでの出番では、会津藩士なのにいち早く官途について、お偉いさんにも一目おかれている姿や、(糟糠の妻を泣かせながら、よりによって女子教育についてなど)いっぱしの口を叩く姿が描かれた覚馬なんですが(ちなみに、覚馬の才覚を認めながらも、中央ではなく府政=地方で用いる岩倉たち新政府側の老獪さも良かった)、八重たちの気配を感じるやいなやの「母上、申し訳ありません、こんな体になってしまって・・・」の哀哭。

もうね、それだけで、「そうだよね、覚馬には覚馬の事情があったんだよね、彼もつらかったよね、故郷のために何ひとつ出来ないし、家族が生きているかどうかもわからない、自分の目では何も見えず(花は愛でてたけどさ)、自分の足ではどこにも行けない月日を過ごして…」と、コロッと、ぐっときちゃって。ちなみに、「母上、八重、みね」と言って、うらの名を口にしなかったのは、うらのことがどうでも良かったのではなく、さすがの覚馬でも呵責で「うらに合わせる顔がない」的な気持ちだったんじゃなかったかと。「みね」と呼ぶことで、その背後にいるべきうらのことも呼んだつもりだったのではないかと。

(まあ、それでも、うらのことを思えば哀しいんだけどさ…山本家が全滅しているかもしれない状況で、そばで、不自由な体の自分に献身的に尽くしてくれる女と交わってしまうのは、男女の哀しいさがだとしても、自然な成り行きなんじゃないかとも思うんですよね・・・っていうか、そう思わせるあんつぁまがスゲー!)

で、「涙ナミダで抱き合う3人を挟んで固まってるみねちゃんと時栄」って図に戦慄する・・・という、二段構えで胸を抉る京都編のスタートなのでした。

前回と今回を見る限り、今後も、歴史の表舞台(新政府や西南戦争など)の描写は限定的になるのかな、という予感がして、それは残念ではあるんだけど、朝ドラ的・・・と揶揄されようと、それはそれでいいんじゃないかという気がしています。前半は容保を主要人物におくことで、「歴史のメインストリームがどう動いていったか」を丁寧に描写していましたが、それは、歴史が動くことによって、人々がどう巻き込まれていったか、というのを描き出すためだったのだと思います。尚之助や、平馬や、うらのように、歴史に埋もれていった人々を描き出すのが今年の大河の目的のひとつであり、これまで見てきた限りでは、「それも歴史へのアプローチの1方法」だと確かに思えるのです。そしてこれからは、覚馬や八重のように、立ち上がり前へ進む人々が描かれていくのでしょう。

・・・八重と覚馬と時栄との同居生活を思うと、朝ドラというより昼ドラになるんじゃないかという気もしますが、それはそれで楽しみです(笑)