葉月の一
●8月某日: 仲良しのお友だちと天神涼園地へ。市役所前広場に、いろんな水遊びのアトラクションが設置される、ここのところ毎年恒例の天神夏イベントである。10時オープンのところ10時半にはINしたけど、パラソル下のテーブルはもういっぱいだ。後日、別の友だちに聞いたところ、9時半にはもう入り口前いっぱい並んで待機してるらしい。。。。
「本日は、最高気温の予想36度になっております。熱中症に十分注意してお過ごしください」とアナウンスが流れる中、子どもたち遊ぶ遊ぶ。大小のスライダーや逆噴射してくる玉入れ(説明が難しい)、水鉄砲ゾーンなどいろいろ気ままに楽しみつつも、サクたちが一番ハマっていたのは結局、「びっくりバケツ」。これ、祭りの提灯のように、頭上のロープにずらりとバケツがぶら下がっていてその中に自動的に水がたまっていき、一定の重さになるとひっくり返って水がバッシャーンと落ちてくる。ドリフ的な、なかなかの勢いなんである。何十回も連続で水を浴び続けた子どもたちは涼しそうというか最後はちょっと冷えすぎた感じもあったけど、近くで見守っている親は熱中症厳戒態勢ですよ。座るとこも全然なかったし・・・・。
ちょっと、夕方まで頭に熱がたまってる感じあった。まあ、小学生にもなると着替えも自分たちでちゃんとできるし、楽っちゃ楽。友だちが予約してくれていたランチのお店がすごくおいしかったー。まだまだ遊び足りない、というか暴れたい子どもたちを警固公園に放つ。警固公園ってさ、冬にスケートリンク作る予算を、夏にもちょっと回してくんないかな。テント張るとかミストとか・・・。
「また、よるね! よるにあおーね!」と連呼しながら別れる子どもたち。今夜の花火大会を友だちのマンションの屋上から見る約束をしているのだ。夜に会えるっていうのが特別感あるもんね。夜ごはんから家を出る前に興奮しすぎたサクは、いざ屋上に着くと疲れがどっと出た様子だったがw 花火をよく見ていた。花火、よく上がってた。すごいね、花火。
あ、夜ごはんは、さばのみりん干し、かぼちゃとニンジンと玉ねぎのカラフル味噌汁、きゅうりとオクラのちりめん和えでした。花火見物から帰った後もちびちび飲みながら夜更かし。
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文月の二十一 / 大人の目で見る戦隊モノ
●7月某日: 昨日半日へたばってたからか? 朝、夫が「今日早くかえってこれるし、夜ご飯つくるよ」と申し出てくれる。夫神、出現…。まあ、割とよくあることだけどw
今日は夏休みのサクの希望の1つ(2つか)を実現。それはキュウレンジャーを私に見せること! いくつも保存してある録画から、「さいしょにみるならどれがいいかな~」と初心者向けの1番組を選んでいるw
設定を解説されながら、見る。名前のとおり9人いるわけだが、全員そろうわけではなく、毎回5人の選抜メンバーで戦うのが斬新。しかもガチャガチャみたいなので選抜する。それでなのか、主人公のシシレッドが「よっしゃラッキー!」という口癖をしばしば口にする。そう、人生には自分ではコントロールできない(=自己責任とは言い得ない)いくつものラッキーとアンラッキーがある。ラッキーなことはラッキーだなと喜んで、アンラッキーなことは自分を責めず人を恨まず…大事だよね。
9人は最初からそろっていたわけではなく、ストーリーの中で探し当てられだんだん増えていってるらしい(そして今やどうも、9人を超しているようだw)。成人男女だけではなく、アンドロイドとか機械生命体とか獣型人間(?)とか、いろんなメンバーがいる。子供もいる。女の子のシンボルカラーは緑。ふむふむ、多様性ね~・・・とか、ポリコレの観点から見てしまう大人脳w
午後はサクのやりたかったことその2、アイスづくり。まだハンドミキサーを未入手なので完全人力でメレンゲを作ります。子ども1分、大人2分の交代制。でもサクの貢献度が上がったのか、去年の夏よりだいぶ早くできた。そして固まりすぎちゃったようで、卵ソースとなかなか混ざらない。サク、黄色と白のブチュブチュを混ぜながら「これ、だいじょーぶか?」と大爆笑。お母さんとなのに、友だちと作ってるかのような危うさがある我が家のお菓子作りw 「だいじょうぶ、固めれば何とかなる!」と言いながら、(こういうとき人生観が出るなー・・・)と思う私であった。でも固まったらほんと、アイスの味になったよ♪
夜ごはんは、豚の焼きしゃぶ風。もやしたっぷり。大人はみょうがとカイワレと青ネギもたっぷり。あとは、私が作った(強調w)大豆ときゅうりとピーマンのカレー炒め、にんじんしりしり、ブロッコリー、きゅうり。で、サクが寝た後もちびちび飲みながら夫と夜更かししてたんだけど・・・
ゆうべハローはりねずみの初回を見たんだけど、脚本っていうか制作?がやばいねってことで夫と一致。クライマックスは瑛太の熱演でもってて、だからこそ残念でしょうがない…。もう若者ではない、脂ののった良い役者たちが古くさいドラマをやってると哀しくなる
『想像ラジオ』 いとうせいこう / 大震災を経た世界に
2013年3月に単行本が刊行。その頃から気にはなりつつも、なかなか手を伸ばせなかったのは、やはりこの小説が「震災」それも「死」を扱っていると書評等で知っていたからだ。そういう物語に飛び込むには、何か「エイヤッ」という気持ちが必要だった。読み終わった今、思うのは、「私のような人にこそ読んでほしい」ってこと。
想像ラジオのDJ、アークは、大きな杉の木の上のほうの枝にたった一人ひっかかっている男だ。そのさらにてっぺんには、1羽のハクセキレイがじっと留まっている。そこは基本的に、しんとした淋しい世界。けれどラジオだから音楽が流れる。読者はアークが紹介する曲を知らなくてもいい。知っている曲や知らない曲が流れて、DJが親しげにしゃべっていて、時折リスナーの声が紹介される、そんなラジオ番組の雰囲気を想像すればいい。この小説は「想像ラジオ」だから。
木の上から、DJアークは様々な思念を四方八方に飛ばす。木の上の男のもとに、様々な思念が集まってくる。そのほとんどは、死者のものだ。
番組は2011年3月11日・・・いや、その翌日?に始まった。大波にのまれ我が身に何が起きたのかわからず呆然としていた人、出口が閉ざされ無明の闇に取り残されて途方に暮れている人、部屋の片隅でうずくまっている人、そして木の上にひっかかる男を目撃した人・・・。彼らはあの日起きたことを語り、あるいはそれまでの己の人生や、はるか昔の伝聞も語る。
数は少ないけれど、それらの声に耳をすませる生者もいる。はっきりと聞こえて自分もまた応え、祈る人。ざわざわとノイズ交じりで聞こえている人。耳を傾けて、聞こえそうで聞こえない人。もしかしたら聞こえているのかもしれない人・・・。共通するのは、大切な人を亡くした人、超人的な力で死者の声を聴き続けてきた人、みずからが死に近づいている人など、死への近さである。
一方で、自らの意思で耳を閉ざす生者もいる。同じく東北で積極的なボランティア活動をする若者たちが、「死者の声を聞くべきか、聞かざるべきか」と帰りの車中で議論するシーンには胸を掴まれた。リーダー格のナオは「そんなもの、聞こえるわけがない」と言う。非科学的だと笑うわけではない。
「おまえたちには帰る場所がある。家に戻れば安全で快適な生活があるじゃないか」
と、支援する相手にも、ましてネットの無関係な人間たちにも叩かれ、軽蔑されるのがボランティアの仕事。そんな中で、自分たちにできるのは、ただ黙って生きている人の手伝いをすることだけ。死者の声が聞こえるなんてのは、自分が役に立ちたいという身勝手な要求だ。亡くなった人、亡くした人の苦しみなんて絶対わからない。それをわかろうとするのは傲慢だ、・・・・と、ナオは言う。
それは、震災よりずっと前からホームレス支援をしてきた彼が、長年のボランティア活動を通じて身につけた感覚。ナオは、一生懸命動いて、それでも届かなかったり摩擦があったりという経験の結果、耳を閉ざしているのだけど、でも彼は現場を知っていて、少なくとも、苦しむ生者の声は山ほど聞いてきた人間である。
問題は、ナオが言うような言葉を、遠くにいて、当事者でなく、直接的に考える必要のない大多数の人間が、「現実的な正論」として受け容れてしまうことなんだろうと思う。作者のいとうせいこうは、どこかのインタビューで、この章を
いつか、震災を知らない世代が「私たちは無関係だから語る資格がないと思ってはならないため」
に書いた、と語ったという。
作者は小説の中で生きている登場人物たちに語らせる。「亡くなった人が無言であの世に行ったと思うなよ」。苦しみや恐怖、怒りや悔しさ、心残り。伝えたかったこと。彼らには山ほどあったはずだ。その声に耳を傾ける気がないなら、どんな行動をしても薄っぺらいものになるんじゃないか。
「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ。」
「亡くなった人はこの世にいないから、自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。(中略)でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人に声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ歩くんじゃないのか。死者と共に」
そう、死は震災だけのものではない。病気や、事故や、老い。遠いクロアチアの紛争地域や、70数年前の戦争。地図を広げ、時間軸を伸ばしながら、作者は死を敷衍する。たくさんの時代の、無数の死。やがて自分に訪れる死。死の当事者でない者などいない。
「魂魄この世にとどまりて」。作者はその概念を、木の上でとりとめもなく喋る、なかなかろくでもない人間だったらしい男と、身じろぎもしない1羽のハクセキレイに象徴させる。そしてその周囲におびだたしい数の死者を配する。DJアークはたくさんの朋友に向かって語り、彼らの声を聴き、彼らに励まされて、もっとも聞きたかった声を聴く。このラジオが聴けないはずの、境界線の向こうにいる彼らの声を。ハクセキレイが美しい飛び方で、迷いなく一直線に彼方へと飛び去って行く。
死者は願っている。自分の声を聴いてもらうことを。愛する人の声を聴くことを。見つけてもらいたくて、とどまっている。どこにも行けない。死者と生者が目を凝らし、耳を傾き合えば、死者は自由になり、鳥のようにあちらとこちらを行き来することができるだろう。
息をつめたり、泣きながら読んだところもたくさんあるけれど、何かとても大事な深淵をのぞいたようで、本当に読んでよかったと思った。読むのがつらいという人もいるだろうけど、この小説で癒され、救われる人もきっと多いんじゃないかと思った。震災の当事者であったり、身近な死の痛みを抱えている人ほど、そうなんじゃないかと。
同時に、これを読み終わったあと(9月下旬)、ちょうど衆議院が解散したころで、ニュースで希望の党だとか国難突破解散とか政局をやってるの見るとあまりにしらじらしくて、震災であれだけの命や地域や生活が失われたという悲しみと怒りを経た世界なんだろうかこれが? と、信じられない思いがしたことも書き残しておく。
文月の二十
●7月某日: 午前中、近くのお宮まで家族で散歩。少し高台にあるし、お手水舎で手も洗えるし(お手水舎に頼りすぎの夏の私)。なんてことないはずの距離がこたえる真夏ね…。帰りに喫茶店でお茶する。かき氷をひとつ頼んでメインで子どもが食べて、大人はコーヒー。かき氷にはマスカットや桜桃やみかんなど、カットフルーツがたくさん入っていてすごくおいしかった。近所なのに初めて来た喫茶店だった。
で、酷暑→冷房&かき氷 という気温差にやられたのか? 体調が悪くなって午後はへたばってた。熱中症とは違うんだけど、なんか自律神経にきてる感じというか…。夏バテですかね。そんな中、1週間分の家計簿つけ&現金との照合、がんばった。旅行の精算もあったのでひと仕事だったのだよ!
サク、朝顔の種を初収穫。別府の旅行について絵日記を書いている。最近、サクの学校用の作文を読むのが私の楽しみのひとつ。小沢健二のフジロックレポートがTLにたくさん流れてきてじんわり感動。
フジロック小沢くんのセットリストとか感想とかが流れてきて感無量である
フジロックで東京恋愛専科とか愛し愛されて生きるのさとかが演奏されたなんてさ。
いやフジロック行ったことないんだけど、なんというかそこはとってもオープンなスペースだよね。小沢さんはメジャーから脱出して、一時期は時々音楽を届けるときも、とてもクローズなやり方をしてたからさ。フジロックでLIFE時代の曲をやるかー、と感無量
そして楽曲の力だなーって思う。楽曲は財産だなって思う。それを本人がやってくれることの尊さ
夜ご飯は、いわしに、かぼちゃとしめじに味噌汁、にんじんしりしり、ブロッコリー、トマト。昼は、そうめんに揚げたてのナスとカボチャの天ぷらも振舞った夫である。夜、直虎見終わったあと早く寝る。
【映画】『エル ELLE』 タフな彼女の変態ムービー
日本に住んで日本語でしゃべり、子どもを日本の学校に通わせ、日本のドラマを見て日本の新聞を読んで暮らしてる。しかも日本史オタク(笑)
そんな私なので、なおさら海外の風にも吹かれよう~。と思う今日このごろ。
日本は好きだけど問題もある。
小さな世界でだけ息してると、何でも「これが当たり前」「しょうがない」と思考停止しがちだから、別の世界の別の視点を見たい。
そして、女でも、若くなくても、自分の人生の真ん中にいたい。
・・・なーんていう、今の気分にぴったりっぽいな! と思って見に行ったフランス映画。
見終わったあとで気づいた。この映画のキャッチコピーが
【クレイジーな変態ムービー】
だってことに。
でも、すっごく面白くて笑えて、49歳の主人公ミシェルも、演じた女優イザベル・ユペール(64歳!)も、超かっこよかったです! 【ライフイズマイン】 に書きました。
文月の十九 / 『ひよっこ』 が修羅場
●7月某日: サク、友だちと学校のプール開放へ。行ってこい♪ その2時間が母にとってめちゃくちゃ大事・・・! 昼ごはんは麻婆ナス・にんじん・オクラの三色丼。うまい。『エルマーのぼうけん』のよみきかせを始める。実は私も今般、初めて読んだ。へぇー、これがエルマーか~って感じ。最後、家に帰らないので驚いた。3部シリーズらしいけど、その最後で帰るのかしらん?
昨日の「vs嵐」の録画を見たんだけど、空中ブランコっぽいジャンプ対決、やばかった・・・皆さんの上腕二頭筋が・・・・かなりツボった・・・普段なかなか見られないセクシーさかげんだった・・・・
夜ごはんは焼きそばとかぼちゃ&きゅうりのサラダ。夫は飲み会。夏休みの終わりに読み聞かせ関係の話をさせてもらうことになり、案を練っていたらついつい夜更かしに。
●7月某日:
ひよっこ。
ひよっこ第102回。「忘れたことにするから。覚えてないなんて言わないで」。みね子の矛盾した叫びが悲痛。やはりこのドラマの主テーマは「忘れないこと」「覚えていること」「存在を認める(肯定する)こと」なんだよね。忘却の残酷さを表現するために、記憶喪失という設定が「敢えて」必要だった。
それにしても、「忘れられる」ことが何より残酷だと思ってるはずのみね子が「覚えてると言ってくれたら今日のことは忘れてあげる、黙っててあげる」(大意)っていうセリフの凄さね。ある程度の覚悟を持って今日の回に臨んだけど、想像の遥か上を行く壮絶なセリフだった…
今日の #ひよっこ はすごかった。「イヤんなっちゃったんでしょ、私わかる。ここにいたいならいてもいい、忘れてあげるから、覚えてないなんて言わないで」矛盾をはらんだ、すごい難しいセリフだよね。血を吐くように言い切った有村架純は、もうみね子にしか見えない。
#ひよっこ 実と暮らしてるのが女優だというのは、経済的に十分自立した美しい異性に守られて、愛だけを与えて暮らすという、「家族の収入を一手に背負って、劣悪な環境で孤独に働く」の奥茨城時代のリバースなんだと思う。
辛いことあって逃げ出したんでしょ、私わかるからわかるからってみね子が2回も言ったことの方がショックだったよ… 失踪してしまう気持ちがわかるほどの思いをみね子もしてきて、それでも笑って頑張っているのに、同じ思いを共有してると思ってた父がその全てを「無かったことに」してた。#ひよっこ
「かわいそうな女の子なんかじゃない」と言いながら「貧乏なんていいこと何もない、仕方ないから笑ってるんだ」とも言った。シビアな現実に葛藤し諦めながらやりすごす日々、多分みんな(父も)そうなんだと思って暮らしてきたところ、空っぽになっている父を見たショックだよね… #ひよっこ
みね子は実際、自分を不幸と思ってきたわけじゃなく、東京で出会った人たちが好きで恋も仕事も楽しかったと思う。だからお小遣いがなくても倒産も失恋も我慢できる、頑張れると思ってたんだろうな。実の東京の寝ぐらも見て「お父ちゃんはもっとつらかったはずだ」と思えてた #ひよっこ
今日の #ひよっこ で私がショックだったのは、みね子が父に捨てられたと受け入れ、理解できると思ってたことが判明したことだな。父の失踪を受け止めきれず、思考停止状態のままでも全然不思議はないのに、みね子は島谷と別れたときのように、家族を捨てた父を許す準備はできていた
みね子のモノローグについて、私は遠い未来からの振り返りのではなく「そのときどきの思い」だと思ってるんだけど、今日の回を見て、たぶん暴行事件が判明してからは特に「かっこいい大好きなお父ちゃん」ではなく「家族を捨てた父」に向かってみね子が呟き続けていたんだなと衝撃受けてる #ひよっこ
CMの「お父ちゃんありがとう」をスラッと言えなかったのも、「うちの父ちゃん帰ってこないから…」じゃなくて「自分たちを捨てた父にありがとうとはさすがに言えない…」だったんだな、とか。一方で、「優しくてかっこいいお父ちゃん」と屈託なく世津子に話せるぐらいには消化もしてて。#ひよっこ
#ひよっこ まだ考えてる。「家族を捨てたのは許せても忘れるのは許せない」という叫びは、突然の展開への混乱が言わせたのでもある。人間って、我慢できる /できない の線をとても克己的に抑圧的に引いているんじゃないかと思った。本当は、父の失踪も倒産も失恋も許せないことなんじゃないかと。
でも里に仕送りしたり倒産にあったのは自分だけじゃないし、父は出稼ぎがきつかった上に盗まれ殴られてさぞつらかっただろうし、島谷の家族は島谷を必要としている、だからしょうがない。自分だけじゃないみんな大変だからしょうがない、人はそんなふうに現実を受け入れようとする #ひよっこ
でも里に仕送りしたり倒産にあったのは自分だけじゃないし、父は出稼ぎがきつかった上に盗まれ殴られてさぞつらかっただろうし、島谷の家族は島谷を必要としている、だからしょうがない。自分だけじゃないみんな大変だからしょうがない、人はそんなふうに現実を受け入れようとする #ひよっこ
記憶喪失判明、ってすごく特殊の事案だけど、みね子の反応はどこか普遍的なものだったように思う。みね子が今まで諦め受け入れてきたこと、それらへの意識下の怒りが爆発した姿。「わかるから責めない」と言ったけど本当はそれはすごくつらくて、すごく我慢して飲み込もうとしてきた姿 #ひよっこ
「みね子程度、大した苦労人じゃない(のに大げさ)」的なのを散見するけど実際そう描いてるよね。恵まれてる部分もたくさんある子だと。「『だからこのぐらい我慢しろよ / 我慢しなきゃ』て話じゃないよね」って話が #ひよっこ なのでは。みんないろいろを当然だと思って我慢してるけど、と。
そうやって、みんなが「みんなつらいんだからこれぐらい」とか「おまえ、そんな程度で」といって我慢したりさせたり、忘れたり目をつぶったりして成り立っている世界なんだ、と。泣くのは嫌だから笑うけどほんとは泣きたいんじゃないか、いつだって叫びたいんじゃないかと #ひよっこ
サクと夫は朝から「大昆虫博」へ。新幹線と在来線を乗り継いで行くらしい。私は留守番しまーす。夏休み、自分の時間は本当に貴重、有効に使おうっと♪ ・・・と思いながらも、6キロちょっと走ったあと、「ひよっこ」への呟きが止まらない・・・お父さんが記憶喪失だったのは想定内だけど、みね子の反応が斜め上過ぎて・・・。慌ててto doをいくつか片づける。昆虫博はかなり楽しかったらしく、2人は充実の表情で帰ってきた。撮ってきた写真とともにレポートを聞く。昆虫はもちろんすごかったらしいのだが
「サソリもいた!」 ←星座の中でもさそり座がお気に入りのひとつのサクである
「ムカデすごかったー。あれは母ちゃん、ダメだな。見たらこわがる」
「きょうりゅうもいた!」 ←骨格標本。でかい
「れきしもあった!」←写真を見ると、鎧兜の展示やミニチュアによる合戦イメージ再現とか。
聞けば聞くほど「なぜ・・・?」とはてなマークが浮かんでくるんですがどういう展示だったんでしょうねw
さて夜ごはんは、豆アジの唐揚げ、砂肝とキャベツの辛い炒め物、かぼちゃサラダ、きゅうりの塩もみ、トマト。子どもを日中、遊びに連れて行って、夜ご飯もちゃんと作る夫、えらい。でも世のお母さんっていつもこれをやってるんだよね~。ビール、白ワイン。
Xデーは いつ来るか? ~「描き続けた“くらし” 戦争中の庶民の記録」
『描き続けた“くらし” 戦争中の庶民の記録』
8月にEテレで放送されたドキュメンタリーです。
東京の下町で暮らす7人家族。
お父さんが、敗戦までの3年間を絵日記で書き残していました。
少しずつ物資が窮乏していく世の中でも
家族の暮らしには、ささやかな幸せがあります。
子どもたちの相撲遊び。
月に一度きりの配給のお肉を、いっぺんにすき焼きにしたり。
庭に掘った防空壕への避難訓練は、まだ遊び半分だったり。
そんな、貧しくもあたたかな暮らしをよそに
戦況は日に日に悪化していき、
ある日、長女の学年(10歳くらい)に集団疎開命令が出ます。
当時の親にとっても、そんなことは前代未聞だったのです。
校庭で行われた説明会は親たちの質問攻めで紛糾し、
夜10時まで続いたと書き残されています。
そして、疎開して数か月
列車の切符をとることも難しい世情の中、
母親は疎開先に慰問に行けることになります。
持ちきれないほどの荷物を持つ妻を見て驚く夫。
妻
「友だちの親御さんたちから、我が子に渡すよう頼まれたものよ。
うちも、これまでそうやってよそのお母さんに託してきたの。
断ることなんかできないわ」
そして長女のもとに行ってみると、
親元を離れた日々をものすごくがんばっていて、
でもものすごく痩せて小さくなっていました。
しばらくして、長女は一人、家に帰されます。
衰弱が激しく、疎開先での生活に耐えられないと判断されたのです。
絵日記
「明るく健康優良児だった○○が、
見間違うほどに痩せこけ、青白い頬になっていた」
長旅から疲れて戻ったその夜も、東京では空襲警報が鳴り、
長女は朝まで死んだように黙りこくって防空壕に・・・
めっちゃくちゃ泣きながら見てました。
◆
思うのは、
子どもを疎開させなければならないとか
少年を戦場に送らなければならないとかって、
実際の「そのとき」より、ずっと前に決まってるんだよね。
国会で法案が成立したときに。
選挙で国会の議席の数が決まったときに。
権力者の横暴を、無関心・無反応という形で黙認したときに。
将来の、生活の崩壊は、そのときすでに始まってるんだよね。
もちろん当時は、憲法も議会も選挙も今とは違うから
どうしようもなかった面もある。
そもそも人口の半分の女性には選挙権がなかったから、
自分たちが政治を何とかしようなんて発想がなくてもおかしくないし、
治安維持法やなんかで、実質的に言論の自由がなかったともいえる。
でも、じゃあ、今はどれくらい違うか?
・・・というと、どうだろう。
選挙権を持っていても政治への参加意識がなかったり
そのときのムードで投票したり
出る杭にならないためにお口にチャックしたり。
実は、昔とあんまり変わらないんじゃないのかなと思ったりする。
何かの法案が成立した日も
選挙結果が出た日も
権力者が権力を濫用した日も
その日そのものは、私たちは穏やかに楽しく生活できる。
Xデーは、あとから来る。
だから、今日の幸せだけに満足していてはいけないんだよね。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259595/index.html
(NHKの番組サイトへのリンクです↑)
文月の十八 / おじゃMAP、お泊り保育
●7月某日: 午前中、サクは公民館主催の子ども教室へ。今日は「忍者修行」とやらがあるらしい。想像つかないけど面白そうじゃないか。学年混合、7~8人ずつの班にわかれると、知ってる子がいないので微妙な表情をしていたけど、紅潮した顔で帰ってきて、ふっふっふという感じで「忍者認定証」を差し出す。吹き矢とか釣り上げとか水遁の術とか、いろいろやって楽しかったらしい。同じ班の子ともたくさんしゃべった、と。
午後は天神ロフトに行って、夫への誕生日プレゼントをサクと一緒に選ぶ。モノは弁当箱と決まっていたけど、たっくさん種類があるからね~。協議の結果、めっちゃかわいくて機能的なやつを選んだ。私も使いたいぐらい。
レオ・レオーニ「フレデリック」のマグカップにひとめぼれして、自分のために買う。
ほかに、スイミーとかコーネリアスとか、いろんな種類があったので夫とサクにもと思ったけど、フレデリック以外はデザインがいまいちピンとこない。それで彼らには、とってもかわいいガーゼハンカチを買った。夫には富士山、サクには忍者w
夜ごはんは、ボンラパスの握り、生ハム、カラフル野菜マリネ、とうもろこし、にんじんサラダ、おいしい冷ややっこなど。誕生日ディナーだけど、なんせ旅行で暴飲暴食してきたので、ボリュームを求める気にならない。と夫と一致した。スパークリングワインは買ったけどねw
昨日の「おじゃMAP」、香取慎吾が保育園のお泊り保育のサポートをする回を見る。サク、予想通り食いつく。実際おもしろかった! 慎吾くんの子どもたちへの接し方がすごくいい。親しみやすいけど尊重してて、そしてかっこいいヒーロー。しかも久留米の保育園だったので、子どもたちの博多弁(久留米弁か)がとってもいい! (サクがこの録画に鍵をかけ(消せないようロック)、このあと、我が家ですでに10回はリピートされている。)
『おんな城主直虎』 第40話 「天正の草履番」
タイトル、自身が脚本を書いた『天皇の料理番』からw
今回、しみじみ感動する良いシーン多し・・・。冒頭は激おこのしのちゃんが乗り込んでくるというワクワクシーンだったけどなw 恨みがましい上目遣い、いいよいいよw 「当節は禅僧と書いて人でなしと読むのですか?!」なんて、すっばらしいセリフ!w しのちゃん、よう言うた! もっと言うたって、言うたって!!
分別を見せるおとわに、「井伊の名が蘇るのはいいことじゃないですか」と喜び、ステレオ放送でじっとりとした視線を送る祐椿尼お母さんとうめもよかったw 女たちが生き生きしていて、これは良い女大河であるw
男たちもみな人間くさい。家康の食えない態度につけ入ることができず、常慶の問いに苦虫をかみつぶした無言の顔で去っていく酒井忠次。ストレートにコワッパたちを励まし、万千代だけでなく万福の肩も叩いていく本田忠勝。
そして、家康。万千代が小賢しく「ただの百姓の女、お目通りできる身分では…」と言うと「そなたはわしに指図できる身分なのか?」と、優しい口調で余裕のある受け答え。何より、女が直虎だと知るとハッと息をのみ、すぐに上がるよう紳士的に促す姿が「信のおける人間」の描写だった。
かつて、寿桂尼や氏真などと対峙したときに比べると、直虎がぐっと落ち着いて年齢と経験を重ねた風情なのもいい。家康は万千代の言い分を聞き入れた理由について、
1.昔、井伊を助けたかったのに助けうるだけの力がなかった罪悪感から解放されたい
2.瀬名の頼みを聞いてやりたい
3.これからの徳川は三河者でなくても実力次第で出世できる家風にならねば。負けん気の強い万千代はその嚆矢としてぴったり
と述べる。なんという、正しい自己認識と将来の見通し! 囲碁ってそれほど人を鍛えるものなのかと感心しきりである。さらに「信玄のような戦上手でも、信長のようなカリスマでもないからこそ、人を大事にせねば」と言う家康を、直虎は 「非凡なる凡」と評し、「己の凡なるを踏まえ、決しておごらず、やるべきことを積み上げていく。凡なることを重ねてゆける人は、やはり非凡なのだろう」と言うが、そんな家康と直虎が意気投合するのは、直虎もまた「非凡なる凡」だからだろうと、視聴者の目には映る。
女だから戦には出られないし、寿桂尼のようなあふれる才能もないから、人を大事にしてきた。その過程で、よりによって大事な「人」を失ったことで己の限界を思い、領主から降り家名を捨て、それでも実際には、人を見捨てず、「潰れた家だからこそ話が通りやすい」ことを喜んで、人のために働き続けている。それが直虎のこれまでと今だ。
けれど、このドラマは一人の人間に対して、そんな自己認識や俯瞰とは違った見方も重ねてみせる。万千代の葛藤のそばで万福が幾度かアップになるカットがあり、万千代の内面を告げる。
幼い日に「我と共に井伊を守ろう」と「殿」に言われたことが虎松の原点であり、彼にとってはずっとおとわは「殿」であること。殿から勝手に降りるという「間違い」な言動をしてもなお、殿なのである。虎松にはまさに、直虎は「非凡な者」だったんだろう。
「子どもだった自分たちは戦いもせずに負けた者といわれる、それが耐えられない。もう井伊の名はないのだから好きに生きろと言ったじゃないか、ならば応援しなくてもいいからせめて見守ってくれよ」という万福の言葉はこの世代の真情を感じさせるとともに筋も通っていて、ナイス。
死んでいった人々がどうの、生きている人々がどうのとか、知ったこっちゃないってことだよね。万千代たちにとっては、上の世代の枷や事情を押し付けられているってこと。それでも、おとわに「自分勝手を通して周りを困らせるのが当主か」とやりこめられたのも効いてて、ふてくされて土間に座っている菅田くんが超かわいいんですけどーーーーーー!(突然叫ぶ)
松下家の夫婦。井伊の名を名乗るなんて筋が通らない話だと最後までつっぱるのがしのであるという皮肉。なんとしても井伊の跡継ぎを産まねばと言っていた彼女が・・・。松下当主の
「そなたはまごうことなき虎松の母だし、わしはかりそめにも父であった。ならば最後まで親らしくあらぬか」
というセリフにはもちろん感涙だけど、それに対してしのが「まことに申し訳ございませぬ」と返す脚本に、心っ底、感じ入った。ありがとうございます、とか、あなたはなんてすばらしいお方とか、そういうんじゃないんだよ。「まことに申し訳ございませぬ」、この一言に、後妻として入ったしのの立場や、夫への愛情や、松下当主の忸怩たる内心や、いろんなものが見える。
「兄が善なる者であるからこそ、自分がどんな役目を負っても救われる気がする」常慶がみずから言うほどにはまだ彼のキャラが立っていないと感じていて、そういう意味でもなつに言わせる演出は良かった。そしてその言葉はやはり但馬を想起させる。それが、「直虎=善(光)、但馬=影」というだけでなく、但馬のそのまた影に、なつや亥之助がいたのだという奥行きを知らせるシーンになっていたのが、またよい。
虎松の暴走も「己が蒔いた種」だったのだな、と笑う南渓。おまえってやつは、つくづく・・・(苦笑)。
角度によって見え方はさまざまなんだなと重ねて感じさせる脚本である。それが氏真のシーンにも表れる。ひとさし舞いながら「京の都はホントいいよね~♪」と言って浮かれる姿とか、ほんっと伝芸役者の面目躍如。そして「何も戦ばかりが仇のとり方ではない」信長に所望され面前で蹴鞠を…というのは有名な逸話だけど、こんな形で映像化されたことがあっただろうか(涙)。
「あきらめなければ、必ずできるー!」もちゃんと受け継いでいる虎松。あの「草履すべらせ技」が劇画チックに見えて、実際、草履番ってあれに近いことをやってたらしき史料も残ってるらしいですねw 虎松はいわゆる「非凡」な才を持った若者なのだけど、あくまで若者であって、周囲の「非凡なる凡」な大人たちにやりこめられたり、さりげなくアイデアをもらったり励まされたりという姿が本当にいい。