『ごちそうさん』 第19週 「貧すればうどんす」
配給に何時間も並んだりカブの大小で小競り合いしたり、軍国歌謡作ったり、闇で買ったり。時局の精度に従ったりおもねったり逸脱したりしながら、何とか適応してやっていこうとする庶民の姿は私たちそのもので、「この先まだ悪くなる」史実を思えば、今の私たちの先はどうなるのかなと #ごちそうさん
デザインを捨てて、人命を守るために強度だけに注力する。子どもたちには将来の選択の余地がない。どこで間違えてこうなっちゃったのかなと思うけど、現在進行形で間違い続けてるんだよね。「戦略的転進」も、配給と闇の二重性も、現状を容認してるってことで。#ごちそうさん
集団的自衛権の行使を閣議で容認したこととか、南スーダンへの自衛隊派遣とか、昨今のマスコミの報道体勢とか、100年後の人にはどういう目で見られるんだろう、現代が歴史になったときどんな位置づけになるんだろうね。#ごちそうさん を再見してると政治的なこと考えさせられるんよね…
め以子が主婦の仕事を、悠太郎が建築(と役所仕事)を、希子夫婦がマスコミを、3人の子が若者を、室井が文芸(芸術)を…と、多方面からのアプローチは、社会がどのように成り立ち時代を進行させていくのか、ってことを把握させてくれるから、歴史をそして現代を考えさせられるんよね。#ごちそうさん
8時開始以降の朝ドラ各作を思い返して、#ごちそうさん ほど社会批評的な作品はないように思う。一方で、人間の生命の営みと、それが含む業のようなものを描き出した作品でもある。それもこれも、半径数メートルの世界のエピソードの積み重ねだもんなあ。私たちの世界は大きなものに繋がってるんだね
#ごちそうさん 砂糖が配給になったときあれだけ落ち込んでたのに、実はそこから計画的に食糧備蓄していため以子の嗅覚。悠太郎始め家族は笑ったり驚いたり持ち出したりで、「食べれんかったら死ぬ」という主婦の危機感は家族の中で浮いている。配給を巡り喧嘩にもなる主婦たちは真剣
#ごちそうさん 「根がお嬢さんだからわかんないのよ、食うためには仕方ないのが」「頭を低くしてやり過ごすしかないよ」と言う室井の表情に、つらいとか残念とかじゃなく、桜子へのちょっとした侮りや時局への卑屈さが見えるよね。脚本演出だと思う。時局に迎合できる人間が偉い、ていう感覚への批評
そうか。希子は関東大震災をきっかけに、正しい情報を速く広く伝えたいと放送局に応募したのだよね。なのに今の放送局は情報を隠し、大本営のプロパガンダ業務に徹していて、希子はそこに加担している。安全な街作りのために鉄筋に傾注してきた悠太郎は…とことん皮肉な流れなのだなあ #ごちそうさん
思想とか反骨よりも、満腹と笑いを。人が求めているのは八紘一宇なんて美しいお題目じゃなくて、おなかいっぱい食べて笑い合うこと。そうすれば鈍することもなくギスギスしなくなる。主義者になって奥さんを苦労させ捕まる男性と、仲間への #ごちそうさん のために頭を下げたうま介さんも対比かー
#ごちそうさん の再見は、あの長く長く続き破滅的なところまでいってしまった戦争をどうやったら止められたのか、繰り返さないためにどうすればいいか、って視点で見てしまうんだけど、今週がひとつの答えだな。鈍しないためには貧しない。たくさんの人がお腹いっぱい食べて楽しく笑い合えること
自分の家族から範囲をちょっと広げて食べさそうとするのは施しではなく、周囲が貧しないことが結局、自分たちの鈍しなさにも繋がるから。人を笑わせて自分も一緒に笑えるほうが楽しいから。本来、難しい美しい思想じゃなくてシンプルな話なんだよね。というのが #ごちそうさん らしさだなあ
自分の周りが満腹や笑顔でみたされることが一番。でも「それさえやってればいい」じゃなくて、「そっちの方向にいってるか?」というスタンスで、大人が自分の仕事や、政治や行政と対峙するのが必要なんじゃないかと思う。じゃないと #ごちそうさん の時代のように、気づいたら何も言えなくなってる
でもやっぱり土曜日のラストはさらなる不穏を描いて終わるんだよね。め以子のほとんど無思考な、本能からくる #ごちそうさん を利用して闇まで密告してた松島さん。そして悠太郎の異動…。みんな自分なりにがんばっても止められなかった時代の流れ。
睦月の十七・如月の一
●1月某日: 登園途中、仲良しの子に会って一緒に歩いていく。元気。帰りも友だちと3人一緒に歩いて帰り、そのまま友だちのうちへ遊びに行く。てか、そのとき、サクともう1人、ジャンバーを着ないどころか、トレーナーまで脱いで肌着である。
夕方、友だちのうちに迎えに行っても、なかなか帰ろうとしないので珍しく(←本当だ)サクにイラッとして怒った。でも親子って力関係が不均等だから親がずっと怒り続けるのは抑圧感あるよね。スーパーに着いたとこで仲直り(?)する。夜ごはんは、鶏としめじと白菜のクリーム煮。ミネストローネ。にんじんラペとレタス。
今、うちで流行ってる歌のひとつがグループ魂の「Be My ライバル」先週のMステのを毎日録画で見てる。舞台役者ってスゴイ! ものすごく作り込まれてるのに力みのない、何なら隙を感じるくらいの圧巻のパフォーマンス。気持ちいいー!
●2月某日: 近所の子も連れて一緒に徒歩登園。寒いけど元気な子供たち。私は帰ってソッコー足湯をした。足が冷えてたまらん。昼間、自分がやろうと思ってたことがだいたい片付くと気持ちがいいですよね。迎えに行くと子どもたちはまた肌着で走り回っていた。すごく楽しそうである。夜ごはんは豚と根菜のポットロースト、にんじんラペ&レタス。
夜ごはんの前だったかあとだったか、サクに「おかあさん、みて! つきとほっきょくせいがすごくちかい!」と言われてベランダから見てみると、本当だ。まだ3夜目くらいの細ーい本当の三日月と北極星とが、肉眼の感覚で6センチくらいのところに上下で並んでいた。やけにくっきりと輝いて見えてとてもきれいだった。子どもに言われて夜空を見上げて、「明日は晴れだな」と言い合うなんて、ドラマみたいなシーンがあるのが育児だな。ドラマにしてもひどすぎる、みたいな修羅場もあるけどw
大分に日帰り出張していた夫が10時半過ぎに帰宅。だらだらしゃべりながらワイン飲んでたらあっという間に日付がかわってしまった。
ところでGPファイナル今ごろちょぼちょぼ見てますけど、パトリック・チャンのSPすんばらしかったですね! エッジとともに上半身もゆらーゆらーと傾きながら楽しそうに自由自在に音楽に乗っていて気持ちいいったらないです。音楽の優しさや軽やかさだけじゃなく深さを感じさせてくれるような。
そして羽生さんですよ。ものすごい爆発力。ロックンロールのライブかい?みたいな観客の熱狂に鳥肌。彼には1位になりたい点数が欲しいよりも、根源的に「俺はがんがんいきたいんだー!どう見られたってかまわねんだー!」て欲があるように思うんだけど、それがまた新しい形で表現された作品だなと
睦月の十六 / スイッチインタビュー 「佐々木蔵之介×藤原かんいち」
●1月某日: 朝ラン8kmちょっと。昨日よりもっとあたたかい。9時半でも12度くらいあったんじゃないかな。雲の晴れ間でとても気持ちよかった。川沿いを走っていると、西中島橋の石材を再利用した動物のモニュメントがあった。このあたり、ちょいちょい走ってるのに初めて気づいた。
夫とサクはマリノアシティへ。クレープを食べたいんですと。病み上がりだしもっと近場にしようよ、そのクレープ屋さんななら××とか▽▽にあるやん、と夫婦して説得を試みるも、「ちかくにうみがない。」という理由で却下される。海辺の鳥を観察しながらクレープが食べたいのだそうだ。病み上がりにものすごく悪そうだが、ま、今日はけっこうあったかいしね…。
スマスマの最終回について書いた記事 をスマファンの方がよく読んでくださっているようで、ポツポツと感想やリンクのご挨拶などいただく。ありがとうございます。私も良いニュースを心待ちにしています。
夫が枕を買って帰って来た。帰宅したサクは風船マンになる。風船を自分で膨らませて、結ぶこともできるようになった。次々と6個も7個も膨らませて、そのすべてを何とかして持って(足の間に挟んだり、お腹と背中に入れたり)歩いたり、親を巻き込んで2,3個同時に風船バレーしたり、竹串でツンツンして割ったり、元気になってよかったね・・・。夜ごはんは、さんまの干物、味噌汁、大根おろし、カブの浅漬け。
●1月某日: サク、多少鼻はたらしてるけど大丈夫そう。朝、最後の抗生物質を飲み終わって歓喜していた。サク弁、大根のそぼろ煮、野菜のカレー炒め、卵焼き、きんぴらごぼう、にんじんラペ。
夫が所用で有休をとり、でもちょうど幼稚園の送迎の時間は空いているので担当してくれた。めちゃくちゃありがたい。家でいろいろ片づけたいこともあるけどこういうときこそ外にも出よう~と思ってお昼食べに行く。気になってた小さなカレー屋さん。古いアパートの一室に入っている。お昼はワンプレート1メニューで、3種類のカレー(豆、チキン、サンマ)と小さなお惣菜みたいなのがいくつか乗ってる。美味しかった。そして食後のコーヒーがまたびっくりするほど美味しい!
隣のテーブルに、カップルではなく職場の同僚か何かっぽい若い男女が座っていて(2人ともカジュアルなおしゃれさんで、洋服屋さんとかかな?て感じ)、女の子が「食べ物の好き嫌い多い人って、なんにでも好き嫌い多いって言いません?」と言ってたのがなんか心に残って、帰って夫に話すと、ほうほう言ってた。サク、元気に帰ってくる。
前職の先輩のお母様が、先週亡くなっていたことを知り、わずかながらお香典を送る。夜ごはんは、ホットプレートで瓦そば。や、ホットプレート蕎麦ですか。麺をパリパリに焼いて、豚肉とか錦糸卵とか刻みのりとか乗せてね。
今さらながらスイッチインタビュー「佐々木蔵之介×藤原かんいち」の回を見た。旅行が好きすぎて「旅行家」という職業を自分で作り名乗る藤原かんいちさん。世界の巨木を巡るとか、スポンサーがつきやすい旅のテーマを考えたり、旅先からHP更新したり、雑誌に執筆したり。
藤原かんいちさん。ほとんどバックパックに近い形で、50ccのバイクで世界中を巡ってきた人だから、相当にタフだろうし、運も強くてきてるだろうし、人たらし的なところもあるだろうに、何だかとても優しげで、ナイーブな印象の人。
トークも決して得意そうではなかったけど、そんな彼が佐々木蔵之介から「超高速参勤交代の主役は、ある意味いわき弁」という言葉を引き出してくれた。自分も旅好きという蔵之介さん(蔵さんが藤原さんを対談相手に指名)からは藤原さんへの敬意を感じるも、話す姿はナチュラルでフラット。
途中で「オードリー」の幸サマの映像がちょっと流れてねー。めちゃ懐かしかった?
エロ本@コンビニ論争から考えるジェンダーのこと
RT さすが、すごくわかりやすい。こういう説明でも、ジェンダー関係の言説にまっっったく触れたことがない人にはピンとこない(または、もとから偏見がある方はよりいっそう嫌悪感を覚える)のかな?
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
コンビニにエロ本を置くべきでない理由 https://t.co/oJE3OsaKeD この件について「子供を無菌状態で育てるのには問題がある。多少の汚さや世間の風に免疫をつけるべき」て意見を(しかも女性からの)散見したけど、これ読めばそういう問題では全くないのがよくわかるのでは。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
高橋一生が脱いでるananと、仕切られたとこにおいてある男性向けのエロ本では、同じくコンビニに置いてあっても全然ちがうんだよ
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
息子6歳に、いつコンビニのエロ本について質問されてもおかしくないなーと思う。子どもがいろいろ見たり考えたりできる年頃になってきて思うのは、子ども(我が子に限らず、世の中の子ども全般)に対してむやみに、あるいは漫然と「そういうものなんだよ」「仕方ないんだよ」と説明したくないってこと
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「こういうのが好きな人もいるから。売るのも買うのも個人の自由なんだよ」と子どもに説明したくない。私自身はひどい痴漢やセクハラに遭うとか、夫に下に見られるとかないけど、コンビニのエロ本を許容するような世の中の在り方が痴漢やDVに限らず男女の非対称を維持する要因の1つになってると思う
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
【以下、facebookに書いたもの】
ちょっと前にtwitterで「コンビニの本棚にエロ本をおくべきか否か論争」みたいなのがあったんですわ。
自分に子どもができるまでは考えたことなかった。
「まあ売ってるよね。自分は買わない(関係ない)けど」て感じ。
今は、「置かないでほしい」と思ってる。
コンビニ(一般書店も含む)に、わずかな仕切りだけで、子どもに見える形でエロ本を売ってるという現実。
それは、
女性が相当際どい水着や下着だったり、扇情的な顔でポーズをとってる表紙が、子どもにも見えるということ。
一方で、男性が相当際どい水着や下着だったり、扇情的な顔でポーズをとってる表紙は、基本的に、置かれてない(相当少ない)ということ。
「これを需要と供給といいます」とは子どもに教えたくない。
「男性のほうが性欲が強いんだよ」
「世の中はこういうものだから免疫つけといたほうがいい」
そういうのって一般論かもしれないけど、そういう一般論を見直したいのですよね。
女の子に自衛を促すのも、現実問題、必要だけどさ、その前にエロ本の売り方考えなおしてもいいんじゃないかな?
性欲は自然なことです。
女性にも性欲はあります。
逆に、男性だって、コンビニのエロ本いらないって人はいるでしょう。
性欲の強さも、性欲の発散の仕方も、本来、性差というより個人差の問題です。
なのに、男性向けのエロ本だけが、コンビニという公共的な空間で(子どもがトイレ借りるためだけに入ることもあるよ!)、一年じゅう日常的にどさどさ売られてるのは、
「世の中では男性の性欲は許容されやすい。でも、女性の性欲はそうではない」
「男性は大人になればそこらのコンビニで気軽にエロ本を買える(恥ずかしくない行為)。でも、女性は違う」
と、子どもに刷り込んでるのと同じじゃないんかね。
私は、男にも女にも性欲はあって個人差もあって、男だろうが女だろうが相手を尊重しないといけないよ、まして妊娠とかにも関係してくる問題だから・・・・って教えたいけどね。
高橋一生やら向井理やらが脱いでる表紙のananは、半年に一度しか出ないんだぞ!
男性向けのエロ本も、それぐらい「お宝」感をただよわせたらどーなんだ!
西欧諸国とかではどーなんでしょうか、コンビニでエロ本、あからさまに売ってるんですかね? 知ってる人いたら教えてほしいな。
●追記。
日本では、昔から「枕絵」「笑い絵」、いわゆる春画文化があって、歌麿やら北斎も描いてたわけですが、これは現代のエロ本とは流通の仕方がまったく違うよね。あとユーザーに男女両方を想定していたものが多い印象。違うかな?
息子6歳は篠山紀信展のヌードコーナーを見てめちゃくちゃ驚愕&興奮してた。「おっぱいも、けつも、けも、まるみえ!ギャハハハハ」みたいな。しばし経つと、「何で外で裸になって写真撮る?」「何で裸の写真を飾る?」という問いも口にしてた。https://t.co/HLWYWn8WU8
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
篠山紀信展にヌードコーナーがあるのは知らずに行ったけど、それら(宮沢りえや樋口可南子、山本リンダや、男性ダンサーの写真もあった。役者やダンサーでない人のも)は見せたの後悔してない。コンビニでエロ本を売ってる現状、「そういうんじゃない」ヌードを見せる機会になってよかったなというか。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
や、紀信展のヌード写真にも、発表当時は「性の消費だ」「女性蔑視だ」といわれたものはあったかもしれんし、そういうボーダーの感覚は人によるけども。でもやっぱり、コンビニのエロ本の表紙とはかなり違うと思う。で、子どもは基本、コンビニのエロ本のようなものでしかヌードを見る機会がない。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
で、コンビニのエロ本に気づいた子のすべてが「あれ何?」「何で女の裸の写真?」と尋ねるわけではなくて、何だか聞きにくかったり、尋ねたけど親に言葉を濁されて、「あんまり堂々としたものじゃないんだな、でもコンビニで売ってるからアリなんだな」って感覚を持つ子が多いんじゃないだろうか?
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
コンビニのエロ本にも、「男性顧客向けの、女性の主体性を無視したような女の裸」と同じくらいの質量で、「女性顧客向けの、男性の主体性を無視したような男の裸」の表紙があれば、まだいいのかもしんない。でも実際はそうじゃない。「世の中では男性の性欲は許容されやすい」メッセージとして十分。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「世の中では男性の性欲は許容されやすい(女性の性欲はそうではない)」という言外のメッセージは、個々の男性への冒涜にもなるし、まっさらな子どもにジェンダーに関する誤解を植えつけることにもなるし、それが良くない現状維持に繋がりもするし、とにかくいろんな意味で弊害が大きいと思う。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
性欲を否定するわけではなく、性を「あけっぴろげで健全な”だけ”のもの」と子どもに伝えたいわけでもなく、性欲は自然なことだし(薄いからといって悪いわけでもない)、性には淫靡な魅力もあるけれど、男性のそれだけがコンビニで非常にインスタントな形で並ぶのを許容されてる非対称性がね…
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
自分が中高生の頃を思い出しても、今、中学生の子を持つママ友たちと話しても、女の子も性に対する好奇心はすごくある。自然なことだ。でも、そこで「男性は大人になれば気軽にエロ本を買える」「女性は違う」って非対称な現実がある。それがわかるから、男子と女子は性に対して違う振る舞い方になる。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
というと「女子には妊娠等のリスクがあるから、より強く自衛して然るべき」なんて意見も出そうだけど、「性には妊娠という重大事が伴う可能性がある」なんてことこそ、男女同等に向き合うべきだと子供には伝えていきたい。綺麗ごとかな? いや、女性の選挙権もそんなふうに獲得されてきたんだと思う。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
妊娠とか痴漢とかDVとかいう大きな案件じゃなくても、「性のあり方に対する男女の非対称性を社会が許容してる」パターンの積み重ねが、いろんな影響を及ぼしてる。「コンビニにエロ本」はその一例に過ぎないけど、その一つ一つに対して大人が自覚的でなければ子どもたちにも継承してしまう
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
紀信展でヌード写真を見たときも思ったんだけど、生きてる人間は肉体を持ってるから、誰でも自分の体に興味があるのは自然だと思う。自分の心に興味があるように。そして、他者の心に興味を持つように、他者の体に興味を持つのも自然だと思う。だから写真家がヌードを撮るのも自然に思えた。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
問題は、そのアプローチの仕方で。性には淫靡で背徳的な魅力もあるし(なんたって文明発祥以来、人は往来でセックスなんてしないから)、男女の体が違ったり、関係性が個々である以上、暴力性も持ちうる。それらは数々の映画や小説など創作作品でも描かれているけど、それは個々の形であるべきで、→
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
→「成人男性は、コンビニという日常性の高い、社会的にオープンな場所で、(今を時めく高橋一生でなく)ほとんど名も知られてない若い女性が裸になって写ってる本を気軽に買えます(女性向けはないけどね)」みたいな類型化を許容したくない、子どもに「そういうものなのよ」と伝えたくないなーと思う
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
『お姫様とジェンダー』 若桑みどり / 「ママじゃな」2年半と朝ドラやなんかで、ジェンダーを考える最近 - moonshine https://t.co/ayzdk0QYlP 社会がそういうふうになってるし、そういう社会に生きているから、男性も女性も疑問を持ちにくくなっている。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
2016年8月8日 天皇陛下が「お言葉」を - moonshine https://t.co/OjRLSVziU7 今上のすばらしい人間性によって、どんどん非人間性への希求が高まってるような皮肉さ。ジェンダー同様、私たちの社会が人権をどう考えるかって問題だよなと思う。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
デンマーク研修レポート(下)私たちも変われるかもしれない https://t.co/92VQexhWxP 半年ほど前に書いたこれも関連記事かな。「男性と女性が全く同じ履歴書を持ち、全く同じ発言をする。男性と同じように振る舞う女性は傲慢で売り込みすぎと評価され、男性が採用される」
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
けど、こういう「男女を対称に近づけよう」って思いは、自分の場合、やっぱり子どもを持ったことが大きいなーと思う。それまでは、いわゆる日本的会社に勤めてたし、知らず知らずのうちに男女の非対称性に慣れていて、それをやり過ごせるのが賢い大人だし、それに乗っかったほうが楽だとも思ってた。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「性差が非対称な世界で自分は耐えられたし潰されてもないし、女性を下に見たり消費したりしない夫と結婚できた。だから現状のままで別に大丈夫なんじゃないか」と無意識に思ってたかも。でも子どもを産んで育てて、「この小さい子たちに、何の差があるだろうか?」て感覚を抱くようになったというか。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
睦月の十五 / 歴史勉強会vol.2 / 『精霊の守り人 2ndシーズン』
●1月某日: 1週間前のサクはとても元気だったのだが、時節柄いつダウンしてもおかしくないよなと思い、もしものときにはと母に頼んでおいたのだ。そしたらビンゴ(死語)ですよ。おかーさん、今こそ出動お願いしまーす! いや、時節柄、母のほうも風邪だのインフルだのに襲われていてもおかしくなかったのだ。よかったー。
熱は37度前半で、朝ごはんもよく食べていたし、もう6歳。3時間くらいは問題なかろうと、私はかねて計画していた「歴史勉強会+おしゃべり会」に出席してきた。その模様はこちらにも書いています
mamajanaiwatashi.hatenablog.com
今日は私含めて7人でスタート。バラエティに富んだメンバーで面白かった。お昼の時間には京子ちゃんお手製のグラタンと大根の美味しい炒め物も。うーん、さすが!(もぐもぐ) 皆さんありがとうございます。
帰宅して母によるサクレポート。途中、少し吐き気がくるときもあり食欲は薄め。「でも、ママが帰る時間が近くなると、だいぶ元気になったね」偶然かもしれんけど、かわいいねw 実際、私の帰宅後、おにぎりなどもぐもぐしておった。
夜ごはんは、あらかぶの干物、大根とひき肉の煮物、レタスと鶏ハムサラダ、れんこん梅煮など。年末のMステスペシャルの録画で森山良子&直太朗のパフォーマンス。「聖者の行進」が終わると家族して拍手が自然発生ですよ。夜、サクの熱がまた少し上がって来る。
●1月某日: サクをもういっぺん病院に連れていく。どうも、夏に副鼻腔炎と診断されたときに似た、いやーな感じがするんだよね。ホント大変だったけんさ、あのとき。どういう嫌な感じかというと、匂い。2か月前くらいも鼻風邪が割と長引いたサクだけど、そのときにはにおわなかったのよ。帰り道に少し買い物。一昨日に幼稚園を早退して以来、まる2日ぶりに外に出たサク、気持ちよさそうだった。鳩を追いかけたりしてさ、まだまだかわいいね。
その間、家には業者さんがエアコンのお掃除に来てくれた(夫が立ち合い)。そんなギフトカードを友だちにもらったのです! なのでもちろん、年末の掃除でもスっ飛ばしていたのです。ありがとうー!
夜ごはんは鍋。豚肉、豆腐、ごぼう、しめじ、えのき、ネギ。締めにチャンポン。夫が朝やったカブの浅漬けも美味しかった。サクもよく食べる。ブラタモリ「目黒」。サクが寝てから「精霊の守り人2ndシーズン」の2話。
#精霊の守り人 群衆の扮装、めっちゃがんばってるな!
#精霊の守り人 ディーンさんには、髪型含めてもっとコテコテの扮装してほしかったなあー。イーハンはそれだけフラットであるという表現かもしれんけど、ファンタジーな扮装を見られる作品はなかなかないけんさー
#精霊の守り人 トーサとの別れの場面は、原作を読んだとき、簡明な文章でここまでドラマチックな、豊かな表現ができるのかと感嘆したシーンのひとつ。
#精霊の守り人 原作とかけ離れたシハナの柄の悪さ、真木よう子の地としか思えなくて、あらためてすごい女優だわw
#精霊の守り人 原作の2作品を同時並行でやってるんだけど、かなり工夫されてる感。ただ、原作を知らない人にはスルッと飲み込めるのかなあ。テレビドラマ用に笑えたりほっこりしたりなシーンをもうちょい創作して付加してもいいと思うけど、尺も限られてるしね……
東出くんと真木よう子のシーンを「滑舌悪い俳優、両雄の対決」って言ってるツイートを見かけて爆笑。憤怒とかわけのわからない悲しみとか、鈴木梨央の表情がすごい。女優だ。
3/12 西日本新聞 哲学者の鷲田清一の特別寄稿 『3・11は記念日ではない 新しい「当事者」に希望探る』
3/12 西日本 #新聞、京都市立芸術大学長・哲学者の鷲田清一の特別寄稿『3・11は記念日ではない 新しい「当事者」に希望探る』メモ。
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月13日
「まる6年という日は何かを区切るものではない。大震災という共通の経験も、大きな幹が無数の小枝に分かれていくようにそれぞれの問題へと分岐している→
「→地震の後、大津波や原発事故が東北で起こったことの意味を探り始めた人たちがいる。兵と労働力と食料を中央に供給してきた東北の「歴史」を問う人もいれば、東北の「つくる」文化を見直そうという人。市場システムへの過剰な依存をやめて、暮らしの基盤を自らの手に取り戻そうという人…→ #新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月13日
「→陸前高田出身の写真家畠山直哉は「大津波や原発事故をもし <未曽有の出来事>というなら、それに対して <未曽有の物言い>が用意されなければならないはずだ」と言う。つまり文明のかたちの根本的な問い直しが、被災地か否かにかかわらず迫られていると。しかし語りには難しい点が…→#新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月13日
「→被災地の外では記憶の風化がいわれるが、被災地では今も完了形で語れることは少ない。語りで難しいのは「当事者」という観念。人はつい「被害比べ」をしてしまう。より悲惨な経験をした当事者の語りの前で、別の当事者は押し黙ってしまう。この構造を乗り越えなければならないのではないか→#新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月13日
「→震災遺構を巡る意見の対立(残すか残さないか)がある。遺族は遺構を見るのが耐え難い。遺族にとってそこは記憶の場所ではなく、亡くなった人を悼む場所・祈る場所。ただ、記憶の風化に抗って未来の世代に伝えねばという思いとは共通点もある。共に「不在の他者」を宛先としている。→#新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月13日
「→そして6年という時間は、これまでとは違う「他者」「当事者」も生みだしている。当時はまだ物心ついていなかった人が、今は当事者として同じ場所に立っている。震災後、東北に移住してきた若い起業家やアーティスト、将来ここに住み着く人も含めて、当事者は新たに生まれてゆく。→#新聞」
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月13日
「→若い人にとって被災後の現実は結果ではなく出発点。彼らは新しい暮らしの形、仕事の形を模索している。彼らの声が震災後の語りにどのような別の風を吹き込んでゆくか。新しい「当事者」たちとの連帯のなかに、幾筋かの希望を探りたい。」#新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月13日
2/21 朝日新聞、新国立競技場の整備見直し提言 / スイッチインタビュー 田根剛×杉本博司
2/21付 朝日 #新聞 。2月初め、日本学術会議が新国立競技場の整備見直しを提言。内容は、
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
1.本物の森の創出。
2.渋谷川の清流復活。
3.再生会議と基金の創設。
以下、都市環境計画を専門にする中央大学教授、石川幹子へのインタビューよりメモ。
「100年先の世代へ何を残すかという長期的視野を持つべき。新国立競技場は神宮外苑の中にある。外苑の緑と水は何となく存在しているのではなく、先人たちが築いてきたレガシー(遺産)。人工地盤の上を緑地化し、立体都市公園として整備する現計画は、「ニセモノの森」で自然共生ではない→ #新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「→人工地盤の上への植樹は技術的には可能だが、木を植えるためには通常より頑丈な地盤が必要になり、建設コストがかかる。水やりなど維持コストもかかる。そのうえ、コンクリートの地盤の寿命50年を過ぎればぼろぼろになり、公園と共に壊すことになる。つまり負のレガシーを残すことに。→ #新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「→五輪向けと五輪後の二段構えにすればよい。五輪中は広報用の広い駐車場が必要で、観客が通るために人工地盤が計画されているが、人工地盤はとりやめて、シンプルな構造の屋根を造って仮設通路にするべき。終了後、取り払って公園にして、大地に植樹すれば、水辺と一体化した公園ができる→ #新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「→1964東京五輪には緑地と水辺にとって正負の両面がある。プラスは緑地の整備。選手村は五輪後、日本初の森林公園、代々木公園として整備された。戦前は陸軍の練兵場として使われ、戦後はGHQに接収されていた一帯が、五輪を契機に返還された。→ #新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「→マイナスは、川の犠牲。五輪と前後して、東京では20近い中小河川が暗渠化された。当時は生活排水がそのまま流されるどぶ川だったので、やむを得ない面があった。下水道が整備された今、次の五輪は渋谷川を復活させ、水辺と緑地を一体整備する絶好の機会である。→ #新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「→近代化の過程で東京の緑は減る一方だと思っている人は多いが、実は明治より濃くなっている。先達が先を見据えて計画的に緑を作ってきたから。中でも壮大だったのが昭和初期にかけて作られた明治神宮の内苑・外苑。代々木&青山練兵場の荒野を、神宮建立の際、造園学者たちが杜を作った。→#新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
「→百年前の明治神宮内苑・外苑整備は、総計13万本のうち、10万本近くが全国からの献木だった。今回も、神宮の森再生の基金をつくればよい。五輪を手元に引き寄せて考えられることにもなる。スタジアム周辺整備は、本体工事が済んだあとの作業なので、まだ時間はある。柔軟な検討が大事。 #新聞
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
…と、この新聞記事を読んだ直後に偶然、Eテレ「スイッチインタビュー」で田根剛×杉本博司の回を見たんだよね。田根は1979年生まれの建築家で、2012年、五輪招致に向けた新国立競技場基本構想国際デザイン競技では、「古墳スタジアム」がファイナリストとして選出された。→ pic.twitter.com/j8SiUiF1Nk
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
→建築家としての田根がこだわるのは「場所の記憶」。建築は量産品ではない、1つだけのものだから、歴史や文化などその場所にあるものの記憶を掘り下げていく。新国立競技場のデザイン案「古墳スタジアム」は明治神宮や新宿御苑との調和を目指すものだった(最終で落選)→
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
→田根は高校時代ジェフ市原のユースチームで阿部勇樹、佐藤寿人らとプロを目指したが怪我で断念。その後、北海道、スウェーデン、デンマークにわたって建築を学ぶ。2006年、26才のときエストニアの独立後最大となる国家プロジェクト、ナショナルミュージアムの国際コンペで最優秀賞授賞。→
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
→田根が手掛けたエストニア国立博物館は、旧ソ連の軍用滑走路に建築(エストニアは92年に旧ソ連から独立)。負の遺産を利用し、未来へ向けて滑空するというコンセプト。対談相手の杉本博司(現代美術家)は「建築的というより文学的表現」と称賛していた。→
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
→日本の建築家には、そういう「建築から離れた表現」をする人が意外に多い、という感覚で杉本と田根は一致。杉本は “突拍子もなさ性” という言葉を使ってた。杉本いわく、建築は本来アート。アートから派生したものが建築なんだって。というのは、→
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
→古代ギリシャとか縄文時代とか。人類の意識が芽生えたとき、人は外界と自分の関係を壁画などに描いた。そこから神という概念が生まれ、やがて神を祀るための社を作る。それがアーティストであり建築の起源。装飾的である必要はないし、現代は神や国家のためでなく人類の魂のための建築を、と(杉本)
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
田根は、十年にわたるエストニア国立博物館のプロジェクトを通じて「何もない荒野に人の力で巨大な形が生まれる。その暴力性を含めて建築の仕事は面白い」と言っていた。暴力性への認識。この人にはそれがあるから、逆に「場所の記憶」を掘り下げたくなるのかなと思った。新国立、どうなるんでしょうね
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月14日
『おんな城主直虎』 第12話 「おんな城主直虎」
いやあ。死屍累々の上に雄々しく華々しく立つ #おんな城主直虎、という第1部が終了しましたね…。暗殺場面、うつろな目で井伊谷に帰ろうとしながら力尽きる直親はもちろん、直盛パパに救われた孫一郎も、亀を9年間守り通した藤七郎も、あっさり殺される容赦のなさがたまらなかったです
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月26日
雪の積もる骸を見て我を忘れて咆哮する南渓や、直親を悼んではいても娘のためとあらば目で殺す勢いの千賀や、次郎に呪詛の言葉を吐くしの…この有事に際した人々の剥き出しの感情に撃たれっぱなし。そんな中、落ち込んだ次郎が酒浸ってるのがまた、突き放す脚本であることよ。#おんな城主直虎
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月26日
「何度も何度も過ちを繰り返し滅ぶべくして滅んだ」 その愚かな井伊家の者どもの中の、何ならその筆頭に、自分自身がいることをわかってるんだよね、政次。でも基本的に鋼の心の持ち主じゃないから、さらっと演技できない。次郎の手を振り払うにはあれぐらい強い力を要する。#おんな城主直虎
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月26日
最後に3人で井戸の周りで笑いあったとき。次郎が現れる前に直親は、「次郎と政次が一緒になるのがいい」と言ったんだよね。政次はだからこそ、もう絶対に次郎に許されたり、次郎と心を通じ合うことがあってはならないと思い込んでるんだろうな。#おんな城主直虎
— エミ-emitemit (@emitemit) 2017年3月26日
先週あれだけあからさまなフラグを立てまくって、おじじさまたちとも妻子とも次郎とも別れを告げた直親だから、そりゃもう今週は退場するだけなのはわかっているのですよ。しかし、今川館で太守様(あるいは寿桂尼さま)と対峙するでも、戦場で華々しい名乗りをあげるでもなく、あんなふうにひそかに、あっさりと、ドラマの主要人物でもないキャラに暗殺される直親ご一行(泣)。こういう作家だってわかってるけど、本当に容赦ないです(泣)
直親、死なないでぇぇぇー!!
はっきり言って直親めっちゃ好きでした。世間ではとにかく高橋一生がきてて、そのあおりを食らって直親には必要以上の逆風が吹いてて、サイコパスとか、そういう怖い言葉で分断されたりもしていましたが、彼はこのドラマ世界のほとんどすべての人物と同じく、運命に翻弄される、不器用な凡人の一人だったんじゃないでしょうかね。
検地のときに政次をドン落とした所業で悪名をほしいままにしましたが(笑)、奥山を斬った政次をしっかり庇ったことでその借りはきっちり返したように見えたけれど、結局は政次による「少々脅してやれば」で引導を渡されたことになるのかなあ・・・。
でも直親って結局、政次を心底から疑ったことは一度もなかった気がする。「自分と同じく父親のようになりたくないと思っているはずだ」なんて、ものすごく鋭い洞察ですよね。そして最後も、みなが政次の造反(というか、もともと“クロ”だったのでは?と)を疑う中、直親だけが「政次は井伊を守ったのだと思う」と言っていました。そしてまた、直親は、政次のおとわへの思いも見抜いていましたよね。
三浦春馬の出演作品って実はほとんど見たことがなくて、何年も前の(見た目の)印象で、綺麗な顔立ちで柔和で優しいイメージを持っていたけど、身長が高くて、ことのほか骨太な、迫力のある役者だと思いました。「美丈夫」という言葉がぴったり嵌る役だったなあと。
今回は、直親らの最期に泣き、しのさんに泣き、千賀さんに泣き、おおじじさまに泣き、もうずっとうわああああんという感じで、書いてたらキリがないんだけど、今作、財前直見の女優としてのすばらしさを堪能している・・・・。
感情の表し方が、非常にバリエーションある描かれ方をしてると思うんですね。幼い娘に対して厳しく諭したり、夫や兄の不甲斐なさにピシャリという場面もあったし、柔らかい愛情を示すシーンや、夫の首を見て耐える愛を見せるシーンや、しのの懐妊で不意に堰をきったような涙を見せるシーン・・・。そして今回の「直親、とわをつれてゆくでない!」ですよぉ。賢夫人の千賀さんも、あくまで凡人だというのがきっちり描かれている容赦ない脚本なわけだけど、それがいいのよねえ。
直平・新野・中野の3人衆の、いっしょくたに説明された最期も、門を出てゆく演出と共に、あっけなさゆえに心に残った。氏真に屈辱を受ける新野(その背後にいる政次)。「生き残るのにはコツがあるのでございますよ」なんて笑っていた、最後まで気のいい中野。そしておおじじ・直平の「逆縁にならずにすみそうじゃ」。
彼が言った「もしダメなら天命だ」という言葉が妙に心に残った。天命。これまで既に、井伊に連なる多くの者が非業の死を遂げてしまった。直満、直盛、奥山、佐名、直親(と従者たち)、直平、新野に中野・・・。それは天命だったとすると、今、政次と次郎が生き残り、政次は黒い仮面をまとった井伊の目付として、次郎は辻が花をまとう直虎として井伊にあるのも天命なのだろうか。それとも、異なる方法で生き残っている2人は、天命に抗おうとしているのかな?
悲嘆と悪酔いの中で、次郎は「亀にこの身を捧げる、亀の魂を宿す」と決意する。南渓は「女子にこそあれ次郎」と言う。次郎がこうなることは天命のようで、でも、苛烈な運命に挑戦する凡人の姿そのものでもある。政次も同様。ひとつ、覚えておきたいのは、初回の鶴の姿である。おとわの馬に飼葉をやったのも、さらには、「追いつめられて川に飛び込んだ」おとわを助けたのも、おそらくは鶴だろう。おとわは亀の竜宮小僧になろうとしていた、でもおとわの竜宮小僧は鶴だった。おとわ(と亀)にとってもっとも大事なものは井伊である。ということは、おとわは表の、鶴は裏の、ともに、井伊の竜宮小僧なんだろうなと思う。
「ご初代様」は伝説に彩られているけれど、きっとその人も、天に選ばれた存在ではなく、必死にあがいた凡人だったんじゃないかなーと思いつつ・・・ま、虎松の描かれ方はまだまったく不明だからね。2歳になった虎松くん。茫洋とした大器…かおバカさんかの紙一重、という雰囲気を漂わせていましたね。
睦月の十四
●1月某日: 朝起きるとまずベランダを見るサク。昨日の雪だるまズはまだかわいく並んでいる。子どもは喜んでいるが、今なおそれだけ寒いってことですよね・・・ぶるぶる。義父の畑でとれたかつお菜とカブを幼稚園に持っていく。カツオ菜ちょうど生協が欠配だったそうでたいそう喜ばれた。
午後、放送大学の試験。駅で降りた後、あらかじめ家で地図を見て、こっちのほうが近そうだな、って目星をつけてた道を歩いたんだけど、途中、線路をどこで越えたらいいのかわからずだいぶ時間くった…。余裕持って出たのでもちろん試験には間に合いました。
『教育の社会学』10名くらいしかエントリーしてなくて、しかもそのうち3人くらいは試験に出てきてなくて、教室は少人数でした。前期に比べると(って違う科目だけど)試験の難易度も高かった。何問か迷ったけど、まあ、単位はとれるでしょう。帰りはスムースに駅までついて、駅前のカフェでコーヒー飲む。緊張感からの解放感、いいね。夫が半休をとってサクを迎えに行ってくれた。こちらも義父の畑の収穫物、大根を8本くらい乗せて。(←まるまる太ってて超重いので大根だけ車の人に頼みました)。
試験時間の関係で、夫に半休とってもらって幼稚園の迎えなど頼んで、自然の流れで夜ごはんも彼が。海老とほうれんそうパスタ、山芋鉄板、鶏だしの野菜スープ。
白ワイン飲んで、サクが寝たあと熱燗を少し飲みながら、福岡の飲食店特番みたいなのを録画で見た。今日のゴールデンタイムぶち抜き2時間やってたやつで、アンジャッシュ渡部とか佐々木蔵之介とかが随時出てきたんだけど、これ全国で放送したのかな?違うよね?
●1月某日: サク弁、ごはん、鶏と野菜のトマト煮、スクランブルエッグ、おでんの大根とすり身団子、きんぴらごぼう、ほうれん草おかか和え。ちょうど一週間前に引き続き、「サクちゃんお熱ですー」と幼稚園から電話。あらら・・・。
迎えに行くと、お弁当の時間だった。「もう少しで食べ終わりそうだから」と言われ、お部屋の片隅で待つ。生活グループごとにテーブルに座って、それぞれのお弁当を食べる子どもたち。気ままに喋ったり、テーブルを超えて、誰かの発言に反応したり、楽しそうである。サクも笑ったり喋ったりしているし、弁当は完食。これ、2時(降園時間)までいけたんじゃ・・・?とかうっすら思いながらも連れて帰ると、うん、やっぱり熱ありますね。38度3分。しかし熱が出始めて間もないということもあり、病院で測ったら37度4分しかなかったし本人わりとぴんぴんしているので、インフルの検査は回避された。
しっかりおやつを食べた後、鳥の本を見ながらそのまま寝てしまったサク。昼寝なんて最近ではまずしない。やっぱりきついはきついのね。んで、熱も上がってきた。8時に起きてきて、雑炊を食べさせる。よく食べる。そういえばテレビのリモコンを操作しながら
「8じか・・・えーっと、おかあさんといっしょ・・・あれ?」
とか言ってたんだけど、9時になるまで今は朝だと思っていたらしい。
「え! よる? あー、すごくくらいなーとおもった」 ですと。その驚きを15分くらい引きずって自分で笑っていた。
睦月の十三
●1月某日: 起きたらだいぶ良くなってた! やっぱりねー! 午前中、車に荷物とり&近くのスーパーに買い出しに、3人で行く。すっごく寒い。すごい寒さにサクのテンションが上がっている。「ゆき、ふるかなー。とうちゃん、ゆきふったら、ゆきだるまつくろうぜ!!」
昼ごはんは、一昨日の鶏スープを加工して(夫が)作ったミネストローネと、バケットなど。「おお、きょうはおしゃれだな!」とサク。うまい・・・。ミネストローネうまい・・・。味覚があるって最高・・・。外に出たのはせいぜい30分くらいだったのにすごく疲れて、食後ふとんに入ったら2時間近く寝てしまった。そして起きたら、気分がものすごくスッキリしていた。夫はヒマにあかせて(?)サクを手伝わせてあちこち掃除してた。定規で冷蔵庫の扉のよごれをこそぎとることに励んでいるサクさん。
全豪オープン錦織×フェデラー、序盤は5ゲームくらい連取してたのに、そこから5ゲームくらい連取されちゃって、半年ぶりに実践復帰した35才フェデラーの強いこと! そして会場のフェデラー人気! フィギュアにおける真央ちゃんみたいな人なんでしょうね、世界じゅうどこに行っても彼/彼女が出てきて魂のこもったパフォーマンスすると、応援せずにはいられない、っていう。錦織、フルセットまでいったけど負けちった。
夜ごはんは、刺身の残りと、おでんのスープを加工して野菜をたくさん入れたやつと、かつお菜のおひたし。サクと夫は、昨日もらったらしいお惣菜のコロッケも食べていた。鉄腕DASHスペシャル。
●1月某日: サク弁はおでん弁当。牛すじ、こんにゃく、大根。その他、卵焼きとソーセージと小松菜おひたし。雪です! 夜の間にけっこう降ったらしい。往来のある道にはないけれど、屋根や草木や車などは真っ白に冠雪。「ゆきだよー」と言ってサクを起こすと一発。「おおお!」と喜び勇んで登園。スタッドレスタイヤをつけてる友だちが、近隣の子どもたちを集めて乗せて行ってくれた。本当に有難い。
twitterの相互フォロワーさんからアイデアもらって、私のひるごはんは昨日のおでんスープ野菜入りにうどん玉を入れて食べた。あったまる。
迎えに行くと、私を見つけて開口一番「ゆきだるまつくったよ!!!」と。寒さは残っているものの陽がさしていて、子どもたち外に出て遊んでいる。昼間も存分に雪遊びができたらしい。マンションの植栽の上の雪をかき集めて雪だるまを作り、家に持って帰る。ベランダにも雪が残っているのを発見したサク、裸足で(やめてくれ・・・)ベランダに出て先ほどと同じ大きさの雪だるまを作り、2つ並べていた。夜ごはんは、豚汁、アジの干物、小松菜。寒いから、汁物デイズ。